度肝を抜かれた「小学校の怪授業」から得た教訓 なぜ人は文章を書くのか、なぜうまく書けないか

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

先生のトレードマークともいえるウロコジャージ、明らかにそれの前後が逆なのだ。

間違いない。あのちょっと気味悪いウロコみたいな模様が前後逆に広がっている。科目や読み方の間違いどころか、ジャージまで間違っている。

「もしかしてこの先生は偽物なんじゃ?」

姿形だけ先生に近づけているけど、中身がまったく異なる“なにか”ではないか。そう考えるとさらに恐怖が増した。いつもの教室で感じる圧政の恐怖とは種類が異なる恐怖があった。

「テイレシテンクルサ」

担任の朗読は完全に支離滅裂になっていて宇宙人の言葉のようだ。そこでいよいよ、たまりかねた一人の児童が声を上げた。

「先生、間違ってます」

その言葉に朗読が止まる。そして静寂。得体のしれない緊張感みたいなものが教室を満たしていた。

「なにが?」

本物の先生かも疑わしい存在は、いつのまにか支離滅裂な言語から普通の日本語に戻って答えた。

「ぜんぶです」

かなりの勇気が必要だっただろう。その児童は少し震えた声でそう答えた。

すべて間違っていると指摘された担任はさぞかし怒り狂うだろうと思われた。けれども、予想に反して、彼はただニカッと僕らには見せたことのないような笑顔を見せただけだった。

思い出されるあの日の授業

この原稿を執筆しながら、あの日の緊張した教室のことを思い出していた。担任の先生が異世界の言葉を話し始めたときは本当にただただ恐怖でしかなかった。なぜか、執筆を進めるとあの日の授業ばかりが思い出されるのだ。

なぜあの日の記憶ばかりが蘇るのか不思議で仕方がなかった。なぜなら、あの日の記憶と、執筆内容には一見するとほとんど関係がないからだ。

執筆していた原稿は、よく伝わる文章の書き方といったところから、なぜ伝えなきゃならないのか、なぜ文章を書かねばならないのか、そんな根源的な部分に差し掛かっていた。22年間もインターネットで文章を書いてきた僕が文章に対して主張したいなにかを書き殴っていた。

それと同時に、またあの日の担任の言葉が思い出された。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事