度肝を抜かれた「小学校の怪授業」から得た教訓 なぜ人は文章を書くのか、なぜうまく書けないか
そう主張した先生だったが、はっきり言って僕らはピンときていなかった。
あれからかなりの年月が経った。なぜかこうして著書の原稿を書いて、やっとあの日の先生の言葉の意味がわかったような気がする。
自分の間違いを自覚できる機会が減った
そう、自分は間違っているのだ。自分は正しくないのだ。それを普段から意識することはとにかく難しい。人はどこかで自分の正しさを自覚しないと真っ当には生きていけないからだ。けれども、概ね人は間違っている。では、どこでそれを自覚するのか。するべきなのか。それは本来、文章を書くときに起こるべきなのだ。
文章を書いていて、どうしても通りが悪かったり、支離滅裂だったり、なんか意味不明になったりする。これはだめだな、と途中で書くのをやめてしまうこともある。そういうとき、人は自分に文章力がないから上手く書けないと感じたりする。けれどもそうではないのだ。
それらは文章力がまずいわけではない。ただ、自分が間違っているのだ。だからどう書いてもしっくりいかないなんて現象が起こる。
著書の執筆において、何度もこれはおかしい、これは間違っていると書き直しをし、最初に主張したかった内容とまったく異なるものができあがってしまった。書く前と書いた後で、特に文章に関する考え方が大きく変わったように思う。
文章を書きながら、それらの間違いを自覚し自分の考えをブラッシュアップしていく、文章にはそんな力があると思う。文章とは他人に影響を与えるものではない。自分自身に影響を与えるものだ。
インターネットの発達により、文章を書く機会が増えた。けれどもその反面、自分の間違いを自覚できる機会は減ってきた。
日々、SNSで交わされる議論という名の“なにか”は、自分の間違いを認めたら負けという暗黙のルールができあがってしまった。相手の意見を受けて自分の意見を変えたら負け、自分の意見を変えずに相手を論破したら勝ちというルール、けれども、本来は意見をぶつけることによってお互いが意見を変えて妥協点を探る、そういった議論だってあるんじゃないだろうか。むしろ本来はそのために行われるものではないだろうか。
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