苦手な人を「避ける」人が失ういくつもの大切な事 「わからない」を拒むと、「わかる」機会を失う

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レヴィナス自身は、このような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から、体験的に掴み取っていったようです。この感覚は、師匠について何らかの習い事をやった経験のある人には、心当たりがあるのではないでしょうか。

私自身について言えば、学生時代に長らく勉強した作曲がそうでした。習い始めの頃は、どうにもこうにも、師匠の言う「音を外に探しに行ってはならない」という注意が、感覚的によくわからない。ここで言う「わからない」というのは、もちろん日本語として「わからない」ということではありません。その文言でもって、師匠が意図するところが「わからない」のです。

ところが、この「わからなさ」は、ある瞬間に気づくと氷解している。その瞬間に何があったのかは、自分でも遡及的に体験することができません。とにかく、昨日まで「わからなかった」ことが、なぜかはわからないけれども、今日になって「わかった」と感じられる。そのような体験をした人も少なくないと思います。

このとき「私」という言葉で同定される個人は、「わかった」後と前では、違う人間ということになります。なぜなら、今日の自分が、昨日の自分に同じ文言を投げかけても、それは「バカの壁」に当たって向こうに届かないからです。つまり「わかる」ということは「かわる」ということなんですね。

「わからない」を拒絶すると「わかる」機会を失う

そういえば、一橋大学の学長を務めた歴史家の阿部謹也は、指導教官であった上原専禄による指導について、その著書『自分のなかに歴史をよむ』の中で次のようなエピソードを紹介しています。

上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。

先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。(中略) 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。

それも私には大きなことばでした。阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』

未知のことを「わかる」ためには、「いまはわからない」ものに触れる必要があります。いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」ことによって「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。これが、レヴィナスの言う「他者との邂逅がもたらす可能性」です。

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