苦手な人を「避ける」人が失ういくつもの大切な事 「わからない」を拒むと、「わかる」機会を失う

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20世紀の後半になって「他者論」が大きな哲学上の問題として浮上してきたのには必然性があります。

哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みですが、では古代ギリシアの時代以来、膨大なエネルギーをかけて考察が積み重ねられてきたにもかかわらず、未だに「これが決定打!」とされるものが確定されないのは、なぜなのか。答えは明白です。ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとってのそれではないからです。

連綿と「提案」と「否定」が続く、永遠に「完全な合意」に至らないかのように思える、この営みが、「わかりあえない存在」としての「他者」の存在の浮上につながったのでしょう。

レヴィナスが唱える「他者」の重要性

このように、レヴィナスにおける「他者」は、私たちがふだん用いる「他人」という言葉よりも、はるかにネガティブなニュアンスを持っているわけですが、それでもなお、レヴィナスは「他者」の重要性と可能性について論じ続けています。

ううむ、そのようなよそよそしい相手、わかりあえない「他者」が、なぜ重要なのか。レヴィナスの答えは非常にシンプルです。それは、「他者とは“気づき”の契機である」というものです。自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。

この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできるでしょう。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。

この時、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があります。

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