「台湾への武力不行使」を周恩来に約束させた男 立正大学名誉教授・増田弘氏インタビュー
1946年、吉田茂内閣の蔵相として政治家の第一歩を踏み出した石橋湛山は、それから10年で首相に上り詰めた。
経済政策をめぐるGHQ(連合国軍総司令部)との対立や、自民党内の反対を押し切っての中国やソ連への訪問など政治家としての言動は現在も語り継がれる。はたしてどのような人物だったのか。『政治家・石橋湛山研究』の著者、増田弘・立正大学名誉教授に聞いた。
──ジャーナリスト・湛山はなぜ政界に身を投じたのでしょうか。
政界入りの背景には、日本の再建に貢献したいという強い気持ちがあった。湛山は「戦後の日本を立て直すには、微力ではあるけれども、自分が政界へ出なければならん」とその理由を語っている。
小日本主義で日本の発展に貢献
日本の再建において経済復興が大きなカギとなる中、湛山はジャーナリストとして培ってきた知見、信念を役立てたいと思っていた。
戦前から彼は、植民地がなくとも経済的に、平和的に発展できるという小日本主義を訴えてきた。植民地を失った今、その理論の下で日本の発展に貢献できると考えたのだろう。
また、金解禁論争で時の浜口雄幸内閣の政策を変えられなかった経験から、ジャーナリストが政府の施策に及ぼす影響力に限界を感じていたことも後押しした。
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