石橋湛山の言論活動や政治活動は、つねに身の危険と隣り合わせだった。
今年6月、政界に超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足した。死去から半世紀が経ったにもかかわらず、その主張や生き方に学ぼうとする動きが起こるのはなぜなのか。
『週刊東洋経済』11月18日号の創刊記念号特集は「今なぜ石橋湛山か」。豊富なインタビューや寄稿を基に湛山の軌跡を振り返る。
超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が立ち上がったことをまずは評価し、期待もしたいと思う。が、議連メンバーがどれだけ湛山を理解し、覚悟を持っているかについては疑問がある。
例えば1960年、演説中だった社会党の浅沼稲次郎委員長が元愛国党員の山口二矢(おと や)に刺殺された。山口は浅沼を含め6人をテロの標的にしていたといわれる。日本教職員組合委員長の小林武、日本共産党議長の野坂参三、部落解放運動のリーダー松本治一郎、自民党「容共派」と呼ばれた河野一郎、そして湛山だ。浅沼は湛山の古い友人でもあった。
つねに身の危険と隣り合わせ
湛山が率いた『東洋経済新報』は戦前には植民地主義を批判し、戦時中にも東条英機首相から「とくに監視すべし」と警戒されるなど、ぎりぎりの線で主張を重ねた。
蔵相時代の湛山はGHQ(連合国軍総司令部)の駐留経費に斬り込もうとし、公職追放された。所属していた自由党からは2度も除名処分を受けている。
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