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福澤諭吉の脱亜論と小日本主義は何が違うか 今こそ振り返るべき「石橋湛山の中国論」

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小日本主義の本質を脱亜論と比較する。

石橋湛山の自民党葬に参列する田中角栄
石橋湛山死去に伴い1973年5月12日に行われた自民党葬には、日中の国交を正常化させた田中角栄(右)が出席した

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今年6月、政界に超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足した。死去から半世紀が経ったにもかかわらず、その主張や生き方に学ぼうとする動きが起こるのはなぜなのか。
『週刊東洋経済』11月18日号の創刊記念号特集は「今なぜ石橋湛山か」。豊富なインタビューや寄稿を基に湛山の軌跡を振り返る。
『週刊東洋経済 2023年11/18特大号(絶望の中国ビジネス)[雑誌]』(東洋経済新報社)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

石橋湛山が歿(ぼっ)して50年。それなら歿年は、筆者が物心ついて、ほどない時期。もちろん湛山を知るわけはない。長じて歴史を学び、名前をしばしば目にしても、本格的に調べたり学んだりすることはなかった。

それが一挙に慣れ親しんだのは、やはり『戦う石橋湛山』という書物が、東洋経済新報社から1995年に出てからだろう。

言わずと知れた半藤一利氏の評伝。版を重ねてベストセラーになったのは、印象的な書名も大いにあずかって力がある。巨人の風貌をいいつくしたタイトル・センスには、脱帽のほかない。

「戦い」の公的生涯

湛山の公的生涯は、確かに「戦い」だった。つとに、自他とも認めていることでもある。本人いわく「米英等と共に日本内部の逆賊と戦っていた」とは、「敗戦」の三日後の日記。

さらに戦後の「回想」を読んだ哲学者の神澤惣一郎氏によれば、「石橋の評論には常に安易な時代風潮に対する戦いが存在し、時には嵐に立つ嶮(けわ)しい予言者的風貌さえ感じられ」た。

そんな「戦い」に気づかせてくれたのは、ひとえに半藤氏の見識・センスであって、今あらためて感じ入っている。

というわけで、読みなおしてみた。その「戦っていた」という典型は、やはり戦前のいわゆる「小日本主義」である。

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