しかし、このときの家康は、その年齢、実力、かつては織田家と対等の同盟者であったという事実もあり、あっという間に権力を我が手に集中します。家康は秀吉と同じく、政権内での抗争から合戦を引き起こし、豊臣政権から徳川の政権への移行を画策します。
家康はあえて秀吉の遺言を無視する形で、周りを挑発します。さらには浅野長政、前田利長の謀反の噂を立てるなど、抗争を煽ろうとしますが、家康と他の大名との力の差があまりにも大きく、なかなか家康が望むような合戦にまでは発展しません。
家康の挑発に乗った上杉景勝と石田三成
そんな中、ついに家康の挑発にのる大名が現れました。五大老のひとりである上杉景勝です。家康はすぐさま上杉征伐を決定し、その準備をはじめます。
1600年6月、家康は諸将を集め上杉征伐に出陣します。このとき家康の留守を任されたのが元忠でした。元忠は、伏見城の留守居役となります。手勢が3000人だったので、家康が兵を多く残せないと謝ると、元忠は、
「天下を取るためにはひとりでも多くの手勢を」
と言い、
「なにかあれば自分は討ち死にする覚悟ができている」
と告げます。
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