家康はこの元忠の死を悼むとともに、その戦いぶりを賞賛します。伏見城に残された血染めの畳を引き上げ、江戸城にある伏見櫓の階上に置きました。江戸城に登城する大名たちはつねに、この血染めの畳を頭上に見上げたと言われています。
この畳は明治維新での江戸城明け渡しまで設置され、その後、壬生藩鳥居家に下げ渡され、鳥居家によって丁重に、元忠を祀る精忠神社に埋納されました。また、畳の下の床板は「血天井」として、京都の源光庵などに今も伝わっています。
元忠の具足も今に伝わるものです。伏見城の戦いで元忠を討ち取った鈴木重朝は、元忠が着用していた具足を元忠の嫡男・忠政に形見として返還を申し出ます。しかし忠政は丁重に断りました。
「名誉とともに、ご子孫に伝えてほしい」と。
鈴木家はこの具足を家宝として大事に守っていくことにしました。この具足は現在、大阪城天守閣に寄贈されています。
亡き後も子孫を救った元忠の勲功
家康にとってこの伏見城の戦いがいかに重要であったかは、その後の鳥居家の処遇に現れています。後を継いだ忠政は最終的には山形藩22万石を与えられました。父の元忠からなんと6倍の加増でした。
この後、鳥居家は何度かの改易にあいますが、いずれも取り潰しにあっても仕方ないところを「元忠の勲功」に免じて改易で済んでいます。
「徳川四天王」と比べると存在感の薄い感のある元忠ですが、徳川家にとっては特別な存在だったのです。
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