この後、家康は関白となった羽柴秀吉に臣従する決断を下します。家康は秀吉政権のナンバー2として、天下統一の仕上げとなる小田原攻めに参戦。その功により関東を与えられた一方で、三河をはじめとする領地は召し上げられることになります。
このことにより徳川家中は大幅な組織改編が必要となり、元忠も下総矢作城4万石を与えられました。元忠は徳川傘下の大名となります。家康は、秀吉から東日本の抑えとしての役割を与えられており、元忠はその要の役割を期待されていました。
秀吉の死後、家康の大勝負に命を賭ける
豊臣政権では、諸大名が国元を離れて大坂や京に詰めることが多く、家康もまた、その多くの時間を転封された江戸ではなく京や大坂で過ごします。
秀吉の晩年は、彼の念願であった明への進出が政策の中心となり、多くの大名は朝鮮への派兵を義務付けられましたが、家康およびその配下の大名は、外されていました。そのことが、家康にとって大きなアドバンテージとなります。
秀吉の死後、朝鮮出兵の戦後処理をめぐって、石田三成ら五奉行と、加藤清正ら遠征諸将の間で軋轢が生まれます。豊臣政権の行政を担っていた三成の「無形の権威」に対抗する形で清正らは、家康という「有形の権威」で対抗します。
家康はこのチャンスを逃さず、三成をてこにして、政権内の権力を一気に握ろうとします。かつて秀吉が織田政権を乗っ取ったときは、彼は織田軍団の中では末席で、まわりはかつての上司や同僚ばかりでした。
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