その言葉に家康は感涙し、ふたりは飲み明かし別れを惜しみました。このとき家康は三成の挙兵を見越し、元忠が討ち死にすることを予想していたと言われています。
もっともこの話に、どれほど信憑性があるかは疑わしいところがあります。なんらかの動きが留守中の大坂で起こる可能性は警戒していたのでしょうが、三成が挙兵することまでは考えていなかったように思います。おそらく何かを予感する程度だったのではないでしょうか。
4万の軍勢に囲まれても降伏せず
家康の予感は現実のものとなり、石田三成が宇喜多秀家、毛利輝元の五大老を巻き込んで挙兵します。三成らは、元忠のいる伏見城に殺到しました。元忠は降伏勧告を退け、13日間に及ぶ攻防戦を繰り広げます。
これは関ヶ原の戦いの前哨戦です。三成らの4万に対して、元忠らはわずか1800人で戦います。その勇猛な戦いぶりは、かつて元忠を苦しめた真田勢をも上回るものでした。
そして、のちの世で西軍と呼ばれる三成らにとっての最初の誤算は、この伏見城の攻防戦に13日間も費やしたことです。奇襲の日数的メリットをここで大きく失ってしまいました。
元忠は最後まで戦い抜き、鈴木重朝との一騎打ちの末に討ち取られます。享年62歳でした。
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