「雨戸を閉めようと思ったけど、閉まらない。仕方ないからガラスドアを閉めたら、ガラスがバーン!! と割れて。天井に2メートルぐらいの穴が空いて、ブワーッ!! と原稿が舞い上がっていった。
アシスタントに向かって、『原稿に毛布をかけろ!!』と言ったんだけど、原稿という言葉が届かなかったみたいで、2人とも自分たちが毛布をかぶっちゃって、タンスの陰に避難している。後から思えば、結果的には良かったと思います。私はなんとか原稿を掴もうと四苦八苦するんだけど、破れて散らかるガラスの上を歩いたり何かにぶつかったり。怪我をしていても、その時は痛みを感じなかった」
30秒ほどで竜巻は去っていった。
すぐに周りも明るくなり、風も雨も上がって上天気になった。
茫然自失で周りを見ると、柱はねじ切れていた。アパートから200メートルくらい離れた場所に、屋根が落ちていた。原稿は路上にまで飛ばされ、色々な場所に散らばっていた。
「近所の人が原稿拾って届けてくれたけど、汚れて使えなかった。ちょうど締切日で、急いで編集部に電話したら、『竜巻で原稿が全部吹き飛んだ!? そんなの信じられるわけないじゃない!寝ぼけてんの?』って怒鳴られました」
駆けつけた編集者も、惨状を目前にすると茫然としていた。
その後、会社が経営している旅館に泊めてもらったが「締切日なんだから原稿は描け」と言われ、旅館で作業をすることに。8枚くらい描いたところでタイムアップになった。
雑誌には8ページだけ載って休載が発表された。
「私は、竜巻を罰のように受け止めたんですよ。それでギャンブルから手を引くようになりました。ちょうど30になった頃かな」
手塚治虫さんの提案に大賛成
その後、代表作である『柔侠伝』をはじめ、様々な漫画を描き、双葉社のエース的な存在になっていった。
そんな折、アメリカで開催されたサンディエゴ・コミコンに参加することになった。
手塚治虫さん、永井豪さん、モンキー・パンチさん、他には女性漫画家や編集者という、総勢10名ほどの豪華なメンバーでの旅になった。
「コミコンからの帰りの飛行機で手塚先生の隣の席になったんですよ。フライトは11時間あるから、11時間も話ができる!! と思ったけど、手塚先生は機内でも原稿を描き始めたんです。実際に話せたのは1〜2時間でした」
その中で手塚さんは、
「アメリカに時々行く漫画家4~5人で、1人1000万円づつ出し合ってプール付きの豪邸を買わないか?」
と話を持ちかけた。それが実現すればアメリカに拠点ができ、現地でも漫画を発表できる。
「私は、もう大賛成しました。『手塚先生。そのアイデアをぜひ実現しましょう』って。話が終わると手塚先生は、『バロンすまんな』と言って飛行機の小さいテーブルで、ネームをドンドン描き始めました」
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