販売をせずにひたすらに絵を描いたので、ドンドンと絵がたまっていった。
「日本では展示をしていないのに、アメリカで発表したら面白いかも?というアイデアが湧いて。家族と一緒にアメリカに行って、ワールドトレードセンターで絵を展示したり、2000年にはソーホーで個展を開催したりしました。
会場にお客さんがぎっしり入って、『絵を売ってくれないか?』って言われたけど、売らなかったんだよね。あの時売ってたらかなりの額になっただろうから、相当な馬鹿だと思うよ……(笑)。そんな感じだとギャラリーも手を引いてしまうし。
でも、当時は絵が手元から無くなる心配が強かったんです。自分で描いたものは、自分で取っておくという気持ちが非常に強かったんですね。帰国後も相変わらず、絵は見せても友人や限られた範囲で。結局、娘が私のマネジメントを始める2015年まで、龍まんじの名前は使い続けました」
バロンさんは代表作の『柔侠伝』シリーズを除いて、漫画の連載は短いものが多い。画風も、さいとう・たかをさんらに影響を受けた劇画的なタッチから、アメコミ調へと変わり、双方が溶け合った独自の絵柄を確立したかと思えば、バンド・デシネの画風を取り入れたりと、常に貪欲に、しかし執着はせず、フレキシブルに表現と向き合う。一旦人気が出ても、すぐにアメリカへ渡米したり、名前を伏せて絵画制作を始めたりと、あっさりと次のステージに進む。
「私の前にはラッキーが、待ち構えている」
「一つのことをずっとしてるというより、思いつく端から本当に色々なことをしました。普通なら上手くいかないかもしれないけど、私の前にはラッキーが、待ち構えているんです」
バロンさんが進んでいると、かならず先輩や先生が現れて引き上げてくれるという。
大学に進学すべきだと親を説得した先輩にはじまり、長沢節さん、横山まさみちさん、清水文人さん。
「いきなり小池一夫さんから連絡があってね。『まもなく大阪芸術大学にキャラクター造形学科という学科ができるんで、バロンが教授としてやってくれないか?』
って言われたんですよ。その頃は、私はほとんど漫画から離れて絵を描いていた時期だったから、すぐに引き受けて。教授職を与えられたことがきっかけで、自分の研究室で大きい絵を描けるようになりました。新たな冒険ごっこの場所を見つけたわけです」
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