なにしろ、天正11(1583)年4月には、賤ヶ岳の戦いで、ともに信長を支えてきた柴田勝家を相手にして勝利している。勝家だけではなく、信長の3男である織田信孝も死に追いやった。勝家に荷担していた滝川一益も降伏し、もはや向かうところ敵なしである。
そうなると残るは、織田信長の次男にあたる信雄、そして家康をどう排除するか。それが、秀吉にとって目下の課題だったに違いない。
「屋形としてあがめて慕う」
「屋形(やかた)」とは当主のことで、秀吉が信雄について言ったとされる言葉である。信雄は尾張・伊勢・伊賀の三国を領有。幼い三法師の後見役にもなり、実質的に織田家の家督を継いでいた。
だが、秀吉の勢いが増すにつれて、信雄はないがしろにされていく。秀吉は摂津の池田恒興・元助父子を美濃に移し、自身は大阪城の築城にも着手。信長の安土城を上回る規模の城を築くのに躍起になり、天下人として振る舞い始める。
家康側につくことを決意した信雄
われこそが信長の後継者と言わんばかりに、諸大名に書状を出す秀吉に対して、信雄は「そう来るのならば」と、家康側につくことを決意している。
『三河物語』では、信雄は秀吉に切腹させられそうになり、「家康にたのもう」と徳川勢のほうに近づいていく。家康はこんなふうに答えたという。
「本所を関白殿がもりたてようとおっしゃったので、世は戦いもなくなり静かになるかと思っていたのに、本所に腹を切らせるとおっしゃっていると聞く。ぜひともお助けいたそう」
本所は「領主」の意味で信雄のこと、「関白殿」はのちに関白となる秀吉のことである。秀吉が信雄をバックアップするというので、戦の世がなくなり安心かと思っていたら……と、苦言を呈しているのだ。
新たな領国の経営に注力していた家康も要請を受けて、秀吉を叩く好機と腹を決めている。「ぜひともお助けいたそう」と信雄を担いで、秀吉に対抗することとなった。
天正12(1584)年3月6日、信雄は秀吉と親しい岡田重孝、浅井長時、 津川義冬の三家老を誅殺。それに呼応して、家康は翌日の7日に浜松を発ち、8日に岡崎城を出た。13日には清州城で信雄と協議すると、尾張国小牧山城に本陣を置いている。
秀吉はといえば、大阪城を出発して3月10日には上洛。秀吉軍が伊賀を攻略する一方で、秀吉方に味方した池田恒興と森長可らは3月13日に犬山城をたった1日で落としている。
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