25日に下野皆川城主の皆川広照におくった書状になると、かなり筆も乗ってきたらしい。羽黒での戦いの勝利の報告も、臨場感あふれるものになっている。
「羽柴が日頃からあまりに不義を働くことについて、信雄と私たちで話し合い、去る13日には、尾張の清州城に出馬。同17日、尾濃の羽黒と呼ばれる場所で、池田紀伊守、森武蔵守がたてこもるところに押し寄せて、即時に崩して、1000人あまりを討ち取った」
戦況報告のところの文は「押しよせ、即時に乗崩し、千余人討捕り候」となんだかリズムも小気味よい。
さらに家康は「畿内・紀州・西国・中国とも提携して、まもなく上洛するから安心してほしい」とも書いている。家康の書状は「相手にどんな行動をとって、どんな心持ちでいてほしいのか」が明確である。書状をもらった相手も、頼もしく思ったに違いない。
ちなみに、秀吉が働いた不義というのは、信長の死後、織田家をないがしろにして勝手に振舞っているということにほかならない。のちに家康も、秀吉の死後、豊臣家をないがしろにして、石田三成から同様の怒りを買うことを思うと、なかなか趣深い文面である。
家康は勝利を各方面にアピール
こうして最初につかんだ勝利を各方面にアピールすることに、余念がなかった家康。だが、この時点では、依然として秀吉方が圧倒的に有利であることに変わりない。海千山千の秀吉は、この程度ではびくともしなかっただろう。
だが、秀吉がいくら冷静でも、戦は個人戦ではなく、チーム戦だ。にわかに勢いづく家康勢をみて、焦ったのは緒戦で不覚をとってしまった、森長可と池田恒興である。実は敗れた「羽黒の陣」、は秀吉の着陣を待たずに勝手に手出ししたものともいわれている。なんとかして活躍して、失敗を取り返さなければならない。池田恒興は「家康を小牧山にしばりつけておき、徳川の本国三河を衝くべし」という策を秀吉に献じている。
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