池田恒興は織田家の重臣だっただけに、信雄のショックは大きかったに違いない。そうでなくても、総兵力は徳川と織田の連合軍が2万人に対して、秀吉軍は10万だったともされている。
圧倒的に秀吉軍が有利ななかでも、家康が決戦に臨んだのは、同盟を結んでいる北条氏政と氏直はもちろん、まだ秀吉の手に落ちていない長宗我部元親や紀州の雑賀衆や根来衆、そして越中の佐々成政などが「秀吉の好きにはさせまい」と集結すれば、十分に勝機があったからにほかならない。
つまり、家康からすれば、序盤戦での勢いを対外的に見せつける必要があった。それにもかかわらず、犬山城が1日で落とされたことは痛手だったが、ここでも家康は優秀な家臣たちに救われることになる。
酒井忠次の勝利が突破口に
3月17日、徳川方の酒井忠次と奥平信昌らが、羽黒に陣を進めてきた池田恒興やその娘婿の森長可らを迎え撃ち、これに見事に勝利したのである。
苦しいなかで、見えた光ほど輝かしいものはない。家康はこの好機を逃さずに、攻めに転じている。そう、家康が得意とした「筆」による攻撃である。
忠次の勝利から2日後の19日、家康は美濃国の脇田城主である吉村又吉郎(氏吉)に書状を出している。吉村又吉郎のほうからアプローチがあったらしい。信雄への忠節を条件に、氏吉の身上を保証することを伝えている。
21日には、家康と信雄との連署状というかたちで、紀州の保田花王院と寒川行兼に書状を出して、協力を要請。「ともに秀吉を背後から討つべし」と呼びかけている。
その際に「羽柴が自分のほしいままに振舞うことについて、成敗を加えるため」としっかりと目的を明示しているところに、家康の「大義は自分にある」という強い思いを感じる。
家康からすれば、信雄に「なんとかしてくれ」と懇願されての出兵だ。私利私欲で台頭する秀吉と自分とではまったく違う。そうアピールすることで、反秀吉勢力の結集をはかったのだろう。
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