議論すべきことはあまりに多く残されているが、とにかくグローバル教育はすでに導入され、始まっている。そして先ほど述べたように、留学する学生の数を増やすことは、グローバル教育の解のひとつとして、政策に組み込まれたようなのだ。
確かに数を増やすというのはわかりやすく、結果も見えやすい。しかし、【海外(留学)経験者→グローバルに活躍する人材】という単純な構図は、はたして成り立つのだろうか。何より大きな疑問が生まれるのがここだ。
留学制度は、古くは遣隋使にまでさかのぼる。これを引き継ぐ遣唐使も含め、成果はいろいろとあったが、代表的なところでは、日本史上の鬼才・空海がインドで発生した密教を中国、当時の唐から持ち帰り、平安仏教の発展に大きく寄与したというのがある。使節は中国情勢の不安定さや度重なる遭難に悩まされ続けたが、そこまでして学ぶものがすでに唐にはなく、日本と唐の技術は同等であるという結論に至ったとき、廃止された(開始から約250年も続いていた)。
時は流れて、世界の中心はどうやら中国ではなく欧米であると認識されるようになった。幕末期には、長州ファイブと呼ばれる伊藤博文たちや、私の故郷である鹿児島から薩摩スチューデントと呼ばれる五代友厚、森有礼らが、英国のユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London)に留学し、帰国後、日本の近代化(西洋化)に大きく貢献した。
今と昔では、留学の意味がまったく違う!
それからさらに150年過ぎ、現代日本が留学ブームのさなかにあるのはご存じのとおりだが、ここに挙げたような過去の留学と今行われている留学を比べると、留学の意味が違ってきているのがわかるだろう。近い過去、30年ほど前と比べても状況は違うかもしれない。
昔は留学先が学びの中心地で、留学しさえすれば、日本にはない高度な教育を受けることができた。しかし、今はどうだろうか? 分野にもよるが、日本の教育レベルは高い。OECD生徒の学習到達度調査(Programme for International Student Assessment、通称PISAテスト)は世界トップクラス。サイエンス・テクノロジーのいくつかの分野では、日本が世界の先端を走っている。
ケンブリッジでの研究室ミーティングで、毎週のように日本の研究者の名前が出てきたのを今でも覚えている。もはや、海外で学ぶことイコール日本にはない高度な教育が受けられる、日本にいる人たちより頑張っているということでは決してない。ましてや、それで人間的に大きくなれるというわけでもない。
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