前回まではケンブリッジ、オックスフォードの友人たちから得た気づきをとっかかりに日本社会に関する考察をしてきたが、少し目先を変えてみよう。今回は、最近の留学ブーム、グローバル教育ブームの問題点について考えたい。遣隋使にまでさかのぼる留学の歴史、日本一有名なバスケ漫画『SLAM DUNK(スラムダンク)』のワンシーンや、私がこの春の休暇で一時帰国した際に地元・鹿児島での“日常”から得たものも挙げつつ、話を進めていこうと思う。
さて、近代日本において、教育は国が発展するためのツールと見なされてきたが、それゆえ国がおかれている状況がどのようなものかによって、そのあり方は大きく変わる。戦後から1980年代まで、日本は世界中で賛美され、“Japan as Number One”(Ezra Vogel, 1979)という本が海外でベストセラーになったりもした。
経済成長の担い手となった人々を育んだということで、日本の教育も称賛を浴びた。しかし、経済の先行きが不透明になるや、今度は状況を打開すべく教育改革が繰り返されるようになり(経済状況の悪さは教育の悪さが基になっている、とする風潮もある)、その流れのまま、グローバル時代に合わせた人材育成がうたわれ、留学の斡旋が盛んに行われているのが今だ。
「留学」と「競争力」は直接的には結び付いていない
最近の日本では、グローバル社会を生き抜くための「グローバル教育」に大きな予算が組まれている。“日本の国際競争力の向上”を目的に含む政策だが、国がどういう状態になればグローバルなのか、マクロな指標は何なのかという疑問は尽きない。
そもそもグローバルの波の中で斡旋されている「留学」と「競争力」は直接的には結び付かないし、他国と競争するなら、たとえばIT教育の強化のほうがわかりやすい成果につながるかもしれない。
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