渋沢栄一は「定年後」に一体何をして過ごしたのか 77歳で完全に引退、社会事業や公共事業に専念

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ただ、会社をワンマン経営したり、大量の株式を保有したりせず、経営が軌道に乗るとサッと身を引いた。栄一が好んだのは、多くの人が出資してつくる合本会社(株式会社)だった。だが、将来性があり、社会に有益だと思えば、会社の形態にこだわらず、損を覚悟で資金を出した。また、東京商法会議所など経済団体の組織に尽力し、会頭として政府に実業界の要望を伝えた。

社会への還元を心がけ、福祉事業に注力

そんな大実業家である栄一は、69歳を機に経営の第一線から身を引き、さらに数え年の77歳(大正5年)、つまり喜寿をもって完全に引退し、以後は社会事業や公共事業に専念すると公言した。ここからが栄一の、いわゆる第二の人生といえよう。

後年、栄一は次のように語っている。

「自宅へも皆さんが種々なことを云つて見えますが、それが必ずしも善いことばかりではありません、否(いな)、寄附をしろの、資本を貸せの、学費を貸与してくれのと、随分理不尽なことを言つて来る人もありますが、私は夫(それ)等(ら)らの人々に悉(ことごと)く会つてゐます、世の中は広いから随分賢者も居れば偉い人も居る、それを五月蠅(うるさ)い善くない人が来るからと云つて、玉石混淆して一様に断り、門戸を閉鎖して了(しま)うやうでは、単り賢者に対して礼を失するのみならず、社会に対する義務を完全に遂行することが出来ません、だから私は何誰に対しても城壁を設けず、充分誠意と礼譲とを以てお目にかかる」(渋沢栄一著『論語と算盤』忠誠堂 昭和2年)

晩年の栄一は、誰とでも会って有為な人々を積極的に支援したのであり、それが富豪としての社会的責任だと考えていた。

「自分の斯(か)く分限者になれたのも、一つは社会の恩だといふことを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいふものに対し、常に率先して尽すやうにすれば、社会は倍々健全になる、(略)若し富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持し得るが如く考へ、公共事業社会事業の如きを捨てゝ顧みなかつたならば、茲に富豪と社会民人との衝突が起る、(略)だから富を造るといふ一面には、常に社会的恩(おん)誼(ぎ)あるを思ひ、徳義上の義務として社会に尽すことを忘れてはならぬ」(『前掲書』)

このように「自分は社会から儲けさせてもらっているのだから、それを社会還元すべきだ」というのが栄一の口癖だった。

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