高級住宅街「尾山台」は渋沢栄一の思想が生んだ 幻に終わった世田谷区からの「玉川」独立運動
昨年、東急電鉄の前身でもある田園都市株式会社が設立100周年を迎えた。
1918年に設立された田園都市株式会社は、渋沢栄一による最後の事業を実現させるための企業だった。渋沢が夢見た田園都市づくりは、当初、洗足駅を中心に目黒区・品川区・大田区にまたがるエリアでスタートした。だが、洗足田園都市と名付けられた住宅地の開発は、渋沢を満足させるものではなかった。
そのため、第2弾として多摩川台の造成が進められた。大正期に著しく発展した多摩川台は田園調布と名を変える。田園調布は、理想の高級住宅街になった。そして“田園調布に家が建つ”というフレーズに使われるほど、田園調布は金持ちの象徴として語られるようになる。
田園調布を完成させたことで役目を終えた田園都市株式会社は、1928年に子会社として設立した目黒蒲田電鉄に吸収される形で幕を下ろす。こうした歴史をたどったため、田園都市株式会社は現存しない。
渋沢のDNAを受け継ぐ街は、洗足と田園調布の2つだけではない。田園調布に隣接する玉川村、現在の駅名でいえば東急電鉄大井町線の尾山台駅の一帯も、渋沢の思想を色濃く反映して造成された街といえる。
独立意識の強かった玉川村
世田谷区は玉川地域のほか、世田谷・北沢・砧・烏山の5地域に区分される。5地域は、それぞれが独自の街を形成し、雰囲気も生活環境も文化も微妙に異なる。それは、それぞれの地域が独自に発展を遂げてきたことに由来するが、その5地域でも玉川地域は独立意識が強かった。
尾山台駅を含む玉川地域が、ほかの世田谷4地域より独立意識が強かったのは、村長を先頭に熱心に玉川村の開発計画に取り組んできたからだ。
渋沢率いる田園都市株式会社が田園調布の開発に着手した際、その波は隣接する玉川村にも及んだ。実際、大田区田園調布と世田谷区尾山台は隣接しており、町を隔てる河川や山・谷はない。同じく世田谷区側には田園調布に隣接して玉川田園調布も存在する。
渋沢によって開発が進められた田園調布は、駅を中心にエトワール(パリ凱旋門付近の環状道路と放射線状道路を組み合わせた形式)の道路が整備された。航空写真や地図で眺めると、整然とした田園調布の街はいかにも計画都市といった趣を感じさせる。
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