高級住宅街「尾山台」は渋沢栄一の思想が生んだ 幻に終わった世田谷区からの「玉川」独立運動

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園芸学校は有名な卒業生をたくさん輩出しているが、中でも鈴木省三は特筆すべき人物だろう。鈴木は1938年に「とどろきばらえん」を開園。“等々力”の名前を用いているが、バラ園は、尾山台駅―九品仏駅間にあった。

24歳でバラ園をオープンさせた鈴木は、後に新品種を続々と発表。その偉業は海外にも伝わり、いつの頃からか“ミスターローズ”と呼ばれる。とどろきばらえんに咲き誇るバラは、多くの著名人を魅了した。戦前期、バラは敵国の花であるがゆえに表立って生産することはかなわなかったが、政府高官から「外交テーブルに花がないと、相手から日本は遅れた国と見なされる」と耳打ちされることもあり、鈴木のバラ生産は黙認された。

戦後、復興が一段落すると、人々の間にも余裕が生まれ花を愛でるという娯楽も市民権を得る。とくに、とどろきばらえんのバラを愛したのが時の総理大臣・鳩山一郎だった。鳩山は公務の間を縫って立ち寄ることもしばしばあった。

園芸文化は京成沿線へ

周囲が宅地化したこともあって、とどろきばらえんは1974年に閉園。それ以前より、鈴木は京成電鉄から依頼を受けて、バラの研究開発に取り掛かっていた。

京成は利用者の掘り起こしの一環で、千葉県習志野市で遊園地「谷津遊園」を経営していた。谷津遊園の名物は東洋一とも称されるバラ園で、鈴木はその管理を託されていた。また、管理のみならず新種のバラ開発の研究や後進の育成も任された。

人通りの少ない小径にひっそりと残る温室村の石標(筆者撮影)

そうした縁から、とどろきばらえんの閉園後も鈴木は京成バラ園芸の研究所長として勤務。新種のバラ開発やバラを使った製品づくりに没頭した。1982年、谷津遊園は閉園。谷津遊園のバラを惜しむ声は強く、現在は習志野市が管理を継承している。

谷津遊園を閉園した京成だが、京成バラ園芸は拠点を千葉県八千代市に移して、研究開発を今も続ける。

尾山台一帯に広がっていた温室村の痕跡は、ほとんど残っていない。バス停名と道路端にポツンと立つ石標だけだ。しかし、東急沿線が生んだ園芸文化は京成へと受け継がれた。

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