高級住宅街「尾山台」は渋沢栄一の思想が生んだ 幻に終わった世田谷区からの「玉川」独立運動
話を世田谷に戻そう。
独立意識の強かった玉川地域は、1932年に東京市世田谷区に編入された。しかし、戦後間もない頃に世田谷区からの分離独立を模索した。そのきっかけになったのが、練馬区が1947年に板橋区から独立したことだった。
玉川村と同じく、練馬町は1932年に板橋区に編入された。練馬は独立意識が強く、編入された後も独立を求める機運が下火にならなかった。戦後、練馬は板橋区からの分離・独立を勝ち取る。
それに倣い、玉川地域でも世田谷区から分離・独立して新たに玉川区を目指す機運が高まった。しかし、玉川区は幻に終わった。その理由ははっきりとしないが、玉川とほかの世田谷4地域とが鉄道でつながっていることで一体性が生まれたことが要因の1つともされている。
そして、独立運動が沈静化する頃、世田谷区には宅地化の波が押し寄せていた。中学を卒業したての金の卵たちが、集団就職列車に揺られて東京へと大量にやって来たのだ。金の卵たちは職場である工場や商店に住み込みで働いたが、25歳前後で家庭を持つようになる。そのため、昭和20年代後半から東京近郊は住宅不足が深刻化する。
今も変わらぬ高級住宅街
政府は1955年に日本住宅公団を発足させて、住宅難の解消に努めた。それでも、地方からは仕事を求めて上京する若者が後を絶たず、東京都や神奈川県、横浜市といった行政が住宅整備に追われた。
田園都市線の沿線を中心に、東急電鉄もニュータウンの造成に力を注いだ。しかし、住宅を建設すればするほど、新たな住民が流入。そのため、一向に住宅難は解消されなかった。田園都市線の沿線人口は、その後も増加を続ける。50年後には、沿線人口が約50万人も増加した。一方、早くから区画整理が進められていた玉川地域では、高度経済成長期でも新住民が大量に流入してくる現象は起きなかった。
現在、尾山台駅前には商店街「ハッピーロード尾山台」があり、そこは16時から18時までの間は歩行者天国になる。買い物客であふれる「ハッピーロード尾山台」とは対照的に、商店街の終端である環状8号線から南側には昔から変わらない佇まいの高級住宅街がある。
現在、その高級住宅街の一画には、五島育英会運営の東京都市大学がキャンパスを構える。その名前からもわかるように、五島育英会は東急創業者・五島慶太が興した学校法人だ。そして、多くの学生が行き交うキャンパスのすぐ横が、かつて一面にビニールハウスが広がっていた温室村になるのだが、そこに思いをはせる学生たちは少ない。
農業や園芸といった来歴を経た尾山台は、落ち着いた高級住宅街として今を歩んでいる。
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