高級住宅街「尾山台」は渋沢栄一の思想が生んだ 幻に終わった世田谷区からの「玉川」独立運動

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一方、尾山台や玉川田園調布に環状道路は整備されなかった。それでも、尾山台・玉川田園調布は一区画が広くとられており、1つひとつの住宅が大きい。特に尾山台は田園調布と見紛うほどの高級住宅街でもある。渋沢の田園都市計画から外れた尾山台が、どうして田園調布と並ぶ高級住宅街になったのか?

田園調布駅の復元駅舎。田園調布は駅を中心に整然とした街並みが広がるが、尾山台では環状道路は整備されなかった(写真:Mugimaki/PIXTA)

尾山台が高級住宅街へ飛躍したのは、地元・玉川村の村長・豊田正治によるリーダーシップが大きかった。豊田は地元の名家に生まれ、若くして村長に就任。先見の明があった豊田は、来る東京の都市化を予測し、将来に備えて今のうちから玉川村の耕地整理を進めなければならないと村民を説得した。豊田の主張に基づき、1926年に玉川全円耕地整理組合が発足。翌年、工事を開始した。

東京の人口が増えて玉川村も住宅地化するという豊田の予見には、きちんとした裏付けがあった。もともと田園調布の開発は、玉川村の有力者が渋沢に声をかけたことから始まっている。渋沢と玉川村有力者との面談の折、若き豊田も同席していた。そこで、豊田は渋沢の田園都市計画に触発された。

そうした体験から、豊田には遠からず玉川村にも都市化が及び、そして住宅地化していくだろうとの確信があった。

渋沢のような大資本を投下して都市計画を進めるのではなく、豊田は地元住民が主体になって街づくりに取り組む方針を固めた。地元住民によって、玉川村の区画整理が開始される。

進む宅地化、確信は現実に

豊田の描いたプランでは、全村を貫通する東西に走る幅22メートルの道路や各エリアに公園を新設し、公園と公園を結ぶ道路も建設することになっていた。また、村営の路面電車を運行することも考えられていた。豊田の描いたプランは、あまりにも壮大だったために反対も強く、規模を縮小させられた。

また、壮大な計画だったために、計画完遂に長い歳月がかかった。豊田は耕地整理の途中で死去。リーダーを失うといった困難を乗り越えながらも、尾山台では耕地整理が着々と進められた。途中、東急の助力を得ながら、1954年に耕地整理は完了。田園調布とは異なる渋沢の思想を受け継ぐ街が全貌を現した。

玉川村の耕地整理が進められている中、1927年には東横電鉄(現・東急東横線)が渋谷駅―丸子多摩川(現・多摩川)駅間を開業。1929年には、目黒蒲田電鉄(現・東急大井町線)が自由ケ丘(現・自由が丘)駅―二子玉川駅間を開業させている。尾山台駅は、その1年後に開業。豊田が予見した玉川村の宅地化が、ここから始まっていく。

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