渋沢栄一は「定年後」に一体何をして過ごしたのか 77歳で完全に引退、社会事業や公共事業に専念

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

8月9日、栄一らは東京の有力者百人以上に呼びかけて、神社を創建するための有志委員会を立ち上げた。そして8月20日、「覚書」と題する具体的な神社建設案を全員一致で可決した。

その計画によれば、明治天皇をお祀りする神社は内苑と外苑からなり、内苑の場所は代々木御料地として国費で造営し、それとは別に、外苑は青山練兵場を候補地とするというものだった。外苑には、明治天皇の記念館などを建設することも記されており、このときの青写真がそのまま採用されることになる。

栄一らはこの「覚書」をもとに西園寺公望総理大臣、原敬内務大臣など閣僚だけでなく、大隈重信、山県有朋、桂太郎など政府の実力者たちにも面会を求めて協力をあおいだ。

政府を動かすマスコミ戦略

この動きは新聞で逐一報道され、国民的な関心を誘った。どうやらこれも栄一らの、政府を動かすマスコミ戦略だったらしい。さらに、栄一をリーダーとする有志委員会に属する代議士たちが中心になって、衆議院に明治天皇の神社を建設する請願・建議を提出、万場一致で可決された。同じく貴族院でも可決された。

こうして政府にプレッシャーを与えた結果、ついに大正2(1913)年8月、原敬内務大臣は「明治天皇奉祀ノ神宮ニ関スル件」を閣議に提出して十月に決定され、原敬内務大臣を長とする「神社奉祀調査会」がつくられ、当然、その委員として栄一も選ばれた。

そして翌年2月、鎮座の地が栄一らの「覚書」のとおり代々木の地に決まり、大正4年、内務省に明治神宮造営局が設置された。

栄一も造営局の評議員として、その後も明治神宮の造営に関わることになった。社殿の建築を担当したのは、社寺建築の第一人者だった伊東忠太である。伊東は最終的にもっとも日本に普及している素(しら)木造(きづくり)の銅板葺(ぶき)、その形式は流造(ながれづくり)を採用した。

次ページ神宮の森ができるまで
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事