渋沢栄一は「定年後」に一体何をして過ごしたのか 77歳で完全に引退、社会事業や公共事業に専念

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渋沢栄一は晩年何をしていたのか(撮影:今井康一)
歴史に名を残した偉人たちは「定年後」に何をしていたのでしょうか。新紙幣の図柄に採用される渋沢栄一の「第二の人生」について、書籍『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』より一部抜粋・再構成してお届けします。

大実業家・渋沢栄一の実績

渋沢栄一は、言わずとしれた近代日本における大実業家である。

渋沢氏は、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に根付いた一族で、栄一の生家(中ノ家)はその本家筋にあたり、領主から苗字帯刀を許されていた。

天保11(1840)年に生まれた栄一は、幕末になると尊王攘夷運動にのめり込むが、縁あって一橋慶喜(のちの将軍)の家臣(御用談所下役)に取り立てられた。一橋家では見事な財政救済策を提言したので勘定組頭に抜擢され、慶応3(1867)年、慶喜の弟・徳川昭武がパリ万博へ赴く際、会計係として同行。万博終了後、フランスに留学する昭武の後見役として留まり、西欧の進んだ制度を積極的に学んだ。

戊辰戦争により徳川家は静岡70万石の大名に縮小されたが、栄一は妻子を伴い、旧主慶喜のいる静岡へ移住し、ここに骨を埋めようとした。しかしその後、新政府に請われて大蔵省・民部租税正として明治政府に出仕することになった。

栄一は上司の大隈重信のもとで「改正掛」という政策立案組織を立ち上げ、新暦への転換、鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡(どりょうこう)の統一、租税制度の改革、新貨幣制度の設置などを矢継ぎ早に手掛けた。よく知られているように、国立銀行条例を制定したのも栄一で、明治3(1870)年には大蔵権大丞にスピード出世する。

しかし明治6(1873)年、軍備拡張を主張する大久保利通と対立して下野。その後、三井組、小野組、島田組とともに第一国立銀行を設立して頭取に就任。さらに王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸会社、日本鉄道会社、札幌麦酒会社、東洋硝子、帝国ホテル、東京株式取引所など、五百社近い企業の設立や経営に参画した。

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