渋沢栄一は「定年後」に一体何をして過ごしたのか 77歳で完全に引退、社会事業や公共事業に専念

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ただ、栄一が関わった公共事業・社会事業は、引退してはじめたものばかりではない。すでに現役時代からさまざまな活動を展開している。

とくに長い間、関わり続けてきたのが、東京市養育院である。明治3年にロシアの王族が東京に来た際、ホームレスが多いことを指摘されたため、自活できない路上生活者を一箇所に収容したことから養育院がはじまった。明治5(1872)年のことである。

この施設は東京府の管轄となり、その運営費は江戸時代の町費の一部(七分積金)が使用されたが、これを管理していたのが栄一だったことから、必然的に関わるようになった。

渋沢栄一が驚いた養育院の現場

当時は上野の護持院の建物が養育院となっていたが、栄一はその施設を初めて訪れて非常に驚いた。老人も子供も病人も乱雑に詰め込まれていたからだ。とくに子供にまったく元気がなく、笑いも泣きもしない。それが衝撃だった。その多くが捨て子だったが、こうした状況が子供に悪影響を与えているのだと考えた栄一は、彼らを老人や病人とは別にして生活させることにした。しかも単に収容するという考え方を改めさせたのである。

「笑ふのも啼(な)くのも、自分の欲望を父母に訴へて充たし、或(あるい)は満たさんとするの一の楽みがある。然(しか)し棄児即ち養育院の子供には夫等の愉快がない、自由もない。亦毫(ごう)も依頼心がなく常に淋しい面影が存する。故に私は(略)家族的の親しみと楽しみを享(う)けさするのが、最大幸福であると自信し、子供に親爺を与へる工夫をした」(渋沢青淵著『雨夜物語―青淵先生世路日記』択善社 大正2年)

つまり、施設の職員に子供たちの本当の親になってやれと指導したのである。「子供には依頼心を起こさせるのが、却って其発育に効能がある」(『前掲書』)と信じたからだ。これにより、子供たちの表情もみるみる変わっていった。栄一は野に下ったあとも、この施設に関わり続けた。

ところが明治15(1882)年、東京府会が養育院の費用を廃止する動きを見せたのである。「慈善事業は、自然に懶惰(らんだ)民を作る様になるからいけない」(『前掲書』)という理由からだった。勘違いも甚だしい。栄一はこれに強く反対したので、その年は廃止されなかったが、翌16年になると、廃止が決議されてしまった。

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