渋沢栄一は「定年後」に一体何をして過ごしたのか 77歳で完全に引退、社会事業や公共事業に専念

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そこで栄一は、東京府知事・芳川顕正と相談し、今後も養育院を存続させることに決め、その運営のための基本財産づくりに奔走した。東京府の共有財産であった和泉橋の地所の売却代金、栄一をはじめとする有志の寄付金などをかき集め、明治17、8年からは一般にも寄付金の募集をおこなった。女性たちにも協力してもらい、どうにか運営のメドが立った。さらに明治十八年から栄一が東京府養育院の院長となり、事務を総轄することになった。

明治22(1889)年、養育院の施設は東京市に付属することになったが、栄一は院長として養育院の分院を千葉県安房郡、東京府の巣鴨、井の頭などへ次々と拡大していき、実業界からの引退を決意した翌明治43(1910)年の収容人数は1800人を超えるまでになった。

栄一は「養育院の事業は一層の拡張を要するのであるから、世の博愛なる仁人君子が、華を去り実に就き勤倹の余力を割いて、救済事業の為めに援助せられんことを期待する」(『前掲書』)と述べているが、多くの会社を経営するなかで、このような社会福祉事業を進めてきたことには、まさに頭が下がる思いだ。

また、栄一は、これからの日本は子供の教育にかかっていると考え、東京高等商業学校、高千穂学校、岩倉鉄道学校の創立・支援など、教育分野で精力的な活動を続けていった。

明治神宮の造営を提案

明治45(1912)年、明治天皇は持病の糖尿病が悪化して慢性腎炎から尿毒症に陥り、7月29日に崩御した。その遺体は、生前の遺言に従って京都の桃山に山陵をつくって葬られた。ただ、皇居のある東京の人びとは、陵墓は東京近郊につくられるものと信じており、御陵建設請願運動もはじまっていただけに大いにがっかりした。

その後まもなくして、明治天皇をお祀りできる神社をつくろうという運動が盛り上がる。その中心になったのが渋沢栄一だった。

天皇崩御の2日後、東京市長の阪谷芳郎(さかたによしろう)、東京商業会議所会頭の中野武営(たけなか)と栄一の三人が集まり、明治天皇の陵墓を東京につくるため陳情をおこなおうと話し合ったのがきっかけだった。
ただ、先述のとおり天皇の遺志で陵墓が京都につくられると知ると、彼らは天皇を祀る神社を創建する運動へと舵を切った。

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