1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。当時高校1年生だった津田さんの自宅は最も被害の大きい地域にあった。幸い津田さん宅は倒壊を免れたものの、寒さの厳しい1月にライフラインは途絶え、毛布にくるまり、バーベキューセットの炭火に身を寄せながら暖をとる生活が2カ月間続いた。そんな最中、避難所でボランティアからもらった1杯のコーヒーが、後々まで津田さんの人生に影響する。
「なんてあったかくて、おいしんだろうと。もちろんそれまでにもコーヒーを飲んだことはありましたが、そのときに飲んだコーヒーとボランティアのおばちゃんの優しさが、とにかく骨身に沁みました」
この原体験が「命」に直結する「食」への関心を深め、津田さんは農学部に進学。就職活動時には、当時海外アパレルメーカーとの取引事業を展開していた父親に影響も受け、外資系であるネスレグループの一員になることを決意したのである。
「できない」から生まれた奇策
ネスレ日本に入社した津田さんは、営業として3年間、岡山支店に赴任する。広島、大阪という大きな都市に囲まれる岡山は、全国でも食品や日用品の物価が安くなりがちで、値下げ競争が激しいエリアだ。価格だけで競合製品と差別化することが難しいため、津田さんは店頭フォローや商品陳列に力を注ぐことが求められた。
「朝から晩まで店頭に出て、商品を陳列しまくる日々でした。でも僕は手先が不器用で、特に3Dが苦手なんですね(笑)。いくらやっても上手に並べることができなくて。美しい陳列を全国の営業社員で競い合う『大量陳列コンテスト』というものがあったのですが、僕の地域の先輩たちがばんばん賞をとっているのに、僕はまったくダメでした」
「きれいに積んだからなんやねん!」とグレそうにもなった津田さんだが、悩みぬいて自分なりの方法を考え出す。まずは「売れる理由」を探そうと、店員さんに頼み込んでPOS(物品販売)データを入手、商品が売れているタイミングを見計らい、お店に張り込んだ。するとあるとき、来店客がポーション(1人分用の使い切り)タイプのコーヒーをまとめ買いするのを目の当たりにする。
「そのコーヒーを買ったおばちゃんにすり寄って話を聞いてみると、『お盆で帰省する家族のために買っている。アイスクリームにかけて食べてもおいしいのよ』と教えてくれました。
そこで、お店の方に『ポーションタイプのコーヒーをアイス売り場に置きましょう』と提案したり、お客様の声や店員のオススメというPOPを作ったりしました。本社から指示される店頭施策を無視して怒られたりもしましたが、それでも実際、商品が売れるようになりました」
現在では多くのメーカーが当たり前のようにやっている施策かもしれないが、当時の津田さんはまさに「手探り」だったと言う。「できないことばかり要求してくる」と会社を恨むのは簡単だが、できない自分を省みてこそ、会社のやり方とはまた別の、建設的な方法を編み出すことだってできるということではないだろうか。
こうして津田さんは、自分に向いていないと思う仕事であっても、津田流の「遊びの要素」を足して楽しむ術を覚えていった。
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