享年70歳の彼が高校の同級生3人に託した遺言 小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』第1話(2)

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「大丈夫?」

目を開けると、宮瀬がこちらを覗き込んでいた。

「ああ、大丈夫だ」

私は湯船を出て、足早に脱衣場へ向かった。

洋服に着替え、老眼鏡をかける。視界がクリアになり、いくらか落ち着きを取り戻した。

「引間、のぼせた?」

宮瀬が冷たい濡れタオルを差し出す。相変わらず気遣いがさりげない。モテ男の本領を、老若男女問わずに発揮するのが、彼が誰からも愛される理由だ。

番台の横、脱衣場の角に設けられた休憩スペースへ向かう。

「団室も変わらないねえ」

宮瀬が両手を広げる。通夜の時は片づけられていた丸テーブルと丸椅子が置かれ、壁際には冷蔵ケース、奥の窓側の棚には雑誌や新聞が並んでいた。我が応援団には部室がなかったので、当時はこの休憩スペースを団室と称し、よく四人でたまっていた。

「久しぶりに一杯やろうよ」

宮瀬が冷蔵ケースからコーヒー牛乳とミックスジュースを取り出し、丸椅子に腰かけた。私も向かいに座る。ジュースの蓋を開け、一口、口に含んだ。懐かしい甘さが喉に染み渡り、心まで潤されていく。移ろいやすいこの世界で、変わらずにいることは、それだけで尊い。

「かあー、いい湯だった」

角ばった顔の端々から湯気を放ち、板垣がやってきた。これまた巣立湯名物の、唐辛子をしこたま浮かべ、湯温が50度もある五右衛門風呂、通称「拷問風呂」に入っていたのだろう。
冷蔵ケースには目もくれず、テーブルに杖をかけ、奥の丸椅子に座る。リュックから水筒を取り出しコップに注ぐと、吹き出すように湯気が昇った。

不思議そうに眺める希さんに、「板垣の好物はなんでしょう」と宮瀬が突然クイズを始めた。

「応援団の名前だけどよ」

「ではご本人、お答えをどうぞ」

熱燗のようにちびちびと白湯を飲んでいた板垣が、声高に宣言する。

「50度以上のものだ」

希さんはぽかんとしていたが、私が「人類で初めて、好物を『温度』で答えた漢。それが板垣勇美です」と解説すると、むせるように笑った。

「おうよ。俺が人類を背負って、先頭を走ってやる」

板垣は胸を張り、一気に白湯を流し込んだ。通夜で感じた残念な晩年の姿を払拭する、頼れる団長が甦る。

「んで、応援団の名前だけどよ」

「ちょっと待った」私は慌てて口を挟む。「応援団、やるのか?」

「もちろん」

まさか遺書を読み返した結果、結論が変わるなんて。

「遺書に誰を応援してほしいか書いてあったのか?」

「いや、あれ以外は何も」

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板垣は首を振る。

「でも、あいつのために、俺は応援団をやる」

力強く、そう宣言した。

「さすが団長。仲間思いだねえ」

宮瀬が板垣の肩を叩く。

「そうでもねえよ」

「板垣が謙遜するなんて珍しい。具合でも悪いのか?」

「そうかもな。けどよ、たとえ背骨がなくたって、俺はやるぞ」

「背骨はあるだろうよ。曲がってるだけで。国語教師だったんだから、言葉は正しくな」

私の指摘に、板垣は下唇を突き出し、不貞腐れたように言った。

「引間は、あの頃に戻りたくねえのか」

(7月16日配信の次回に続く)

遠未 真幸 小説家

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とおみ まさき / Masaki Tomi

1982年、埼玉県生まれ。失われた世代であり、はざま世代であり、プレッシャー世代でもある。ミュージシャン、プロの応援団員、舞台やイベントの構成作家を経て、様々な創作に携わる中で、物語の持つ力に惹かれていく。『小説新潮』に寄稿するなど経験を積み、本作を6年半かけて書き上げ、小説家デビュー。「AかBかではなく、AもあればBもある」がモットーのバランス派。いつもの道を散歩するのが好きで、ダジャレと韻をこよなく愛す。

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