享年70歳の彼が高校の同級生3人に託した遺言 小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』第1話(2)

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5月。

自宅のある西国分寺から中央線の各駅停車に乗り、三鷹に向かった。南口を出て、ロータリーを抜け、さくら通りを進む。一本入った路地に、巣立湯はある。銭湯が開く16時の30分前。まだ早かったか。役所を退職してずいぶん経つのに、待ち合わせ時間には余裕を持っていないと不安になる。

男湯の暖簾の隙間から中を覗くと、緑色のジャージを着た金髪の女性が、脱衣場にモップをかけていた。こちらに気づき、「えーと、引間さんでしたっけ?」と私の名を呼んだ。聞き覚えのある声だ。

「あっ、巣立のお孫さんですか」

「希でいいですよ」

彼女は気さくな笑みを浮かべ、首に巻いたタオルで額の汗を拭った。

「ずいぶん雰囲気が違いますね」

「お通夜では黒く染め直してただけ。こっちが本当のわたしです」

本当のわたし。言葉とは対照的に、蛍光灯に照らされた人工的な金色は、彼女から浮いて見えた。

「ごきげんよう」

暖簾がひらりとめくられた。ハットの下からピンクの髪をなびかせ、宮瀬が入ってくる。

「わお。希ちゃん、めっちゃゴールド」

口ぶりは軽いが、注がれる視線は仕事人のそれだ。都内で数店舗の美容室を経営しているだけはある。「今度、僕のサロンに来なよ。もっとパルフェットな髪にしてあげる」と宣伝も抜かりない。

「ういっす。団長、参上」

杖をつき、腰が折れ曲がった板垣が、暖簾を揺らすことなく現れた。「まだ他の客はいねえな」と一直線で脱衣場のロッカーに向かい、服を脱ぎはじめる。

「団長」私は丸まった背中に声をかけた。「風呂じゃなくて、遺言の話だろ」

「はあ? 銭湯に来て風呂に入らないのは、ボリビアに行って、ゲバラの墓参りをしないのと同じだからな」

「せめて、三鷹に来たのにジブリ美術館を観ないのと同じだ、にしてくれ」

「引間、抵抗するだけ無駄だよ」

宮瀬もいそいそと服を脱ぎ出す。

裸になった2人を浴場に見送り、私もロッカーの扉を開けた。

「時が止まってるみたい」

浴室に入ると、巣立湯名物、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が広がっていた。巣立が親父さんから継いだ時に、三保の松原から塗り替えた壁絵だ。理由を尋ねると、「ユダもほっこりして裏切るのをやめるくらい、いい湯だ」と力説していたのを思い出す。

シャワーで汗を流し、湯船に入る。

「巣立湯だけ時が止まってるみたい」

肩まで湯につかった宮瀬が、うっとりと漏らす。

「そうだな」と言いかけ、正面の絵の一部に違和感を覚えた。老眼鏡を外したせいかと思ったが、違った。

「ここだけ、やけにリアルだね」

宮瀬も気づいたらしい。『最後の晩餐』の画面中央からやや左、裏切り者のユダを描いた部分が、本物のような迫力をたたえている。近づくと、緻密な筆遣いに見入ってしまった。

「希ちゃん、ユダだけ生きてるみたいなんだけど」

宮瀬の声に、希さんがドアの隙間から気まずそうな顔を覗かせた。

「そこだけペンキが剥げちゃって。おじいちゃんに頼まれて、わたしが修復したんですよ」

「えっ、希ちゃんが描いたの?」

「その頃は美大に通ってたんで」

「こりゃプロになれるぞ」

板垣も彼女の技術に唸り声を上げる。

「いや、中退しちゃいましたし、もう絵はやめましたから……」

「もったいない。本当に上手ですよ」

お世辞ではなかった。しかし私の言葉に、彼女の瞳から光が消えた。刹那、記憶の欠片が胸を突く。失敗に終わったプロジェクト。土下座した先に広がった絨毯の、のっぺりとした灰色がフラッシュバックする。視界が揺れ、たまらず目を閉じた。

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