5月。
自宅のある西国分寺から中央線の各駅停車に乗り、三鷹に向かった。南口を出て、ロータリーを抜け、さくら通りを進む。一本入った路地に、巣立湯はある。銭湯が開く16時の30分前。まだ早かったか。役所を退職してずいぶん経つのに、待ち合わせ時間には余裕を持っていないと不安になる。
男湯の暖簾の隙間から中を覗くと、緑色のジャージを着た金髪の女性が、脱衣場にモップをかけていた。こちらに気づき、「えーと、引間さんでしたっけ?」と私の名を呼んだ。聞き覚えのある声だ。
「あっ、巣立のお孫さんですか」
「希でいいですよ」
彼女は気さくな笑みを浮かべ、首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
「ずいぶん雰囲気が違いますね」
「お通夜では黒く染め直してただけ。こっちが本当のわたしです」
本当のわたし。言葉とは対照的に、蛍光灯に照らされた人工的な金色は、彼女から浮いて見えた。
「ごきげんよう」
暖簾がひらりとめくられた。ハットの下からピンクの髪をなびかせ、宮瀬が入ってくる。
「わお。希ちゃん、めっちゃゴールド」
口ぶりは軽いが、注がれる視線は仕事人のそれだ。都内で数店舗の美容室を経営しているだけはある。「今度、僕のサロンに来なよ。もっとパルフェットな髪にしてあげる」と宣伝も抜かりない。
「ういっす。団長、参上」
杖をつき、腰が折れ曲がった板垣が、暖簾を揺らすことなく現れた。「まだ他の客はいねえな」と一直線で脱衣場のロッカーに向かい、服を脱ぎはじめる。
「団長」私は丸まった背中に声をかけた。「風呂じゃなくて、遺言の話だろ」
「はあ? 銭湯に来て風呂に入らないのは、ボリビアに行って、ゲバラの墓参りをしないのと同じだからな」
「せめて、三鷹に来たのにジブリ美術館を観ないのと同じだ、にしてくれ」
「引間、抵抗するだけ無駄だよ」
宮瀬もいそいそと服を脱ぎ出す。
裸になった2人を浴場に見送り、私もロッカーの扉を開けた。
「時が止まってるみたい」
浴室に入ると、巣立湯名物、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が広がっていた。巣立が親父さんから継いだ時に、三保の松原から塗り替えた壁絵だ。理由を尋ねると、「ユダもほっこりして裏切るのをやめるくらい、いい湯だ」と力説していたのを思い出す。
シャワーで汗を流し、湯船に入る。
「巣立湯だけ時が止まってるみたい」
肩まで湯につかった宮瀬が、うっとりと漏らす。
「そうだな」と言いかけ、正面の絵の一部に違和感を覚えた。老眼鏡を外したせいかと思ったが、違った。
「ここだけ、やけにリアルだね」
宮瀬も気づいたらしい。『最後の晩餐』の画面中央からやや左、裏切り者のユダを描いた部分が、本物のような迫力をたたえている。近づくと、緻密な筆遣いに見入ってしまった。
「希ちゃん、ユダだけ生きてるみたいなんだけど」
宮瀬の声に、希さんがドアの隙間から気まずそうな顔を覗かせた。
「そこだけペンキが剥げちゃって。おじいちゃんに頼まれて、わたしが修復したんですよ」
「えっ、希ちゃんが描いたの?」
「その頃は美大に通ってたんで」
「こりゃプロになれるぞ」
板垣も彼女の技術に唸り声を上げる。
「いや、中退しちゃいましたし、もう絵はやめましたから……」
「もったいない。本当に上手ですよ」
お世辞ではなかった。しかし私の言葉に、彼女の瞳から光が消えた。刹那、記憶の欠片が胸を突く。失敗に終わったプロジェクト。土下座した先に広がった絨毯の、のっぺりとした灰色がフラッシュバックする。視界が揺れ、たまらず目を閉じた。
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