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長篠の戦いを圧倒的有利に導いた籠城戦の裏事情 弟と幼妻を犠牲にした城主と鳥居強右衛門の忠義

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じつは家康の長女・亀姫との婚姻を受け入れた信昌には、すでにおふうという当時16歳になる妻がいたのです。さらにおふうは、信昌の弟とともに武田に人質に出されていました。信昌は亀姫との婚姻をすすめるために、このおふうを離縁します。敵地となった武田家に捨て去るという冷酷な判断でした。もしかすると離縁し、奥平家とは無関係になったということで武田側の寛大な措置を期待したのかもしれませんが、戦国の世は甘くありません。

長篠城城主・奥平信昌は自らの払った犠牲ゆえ決して降伏しませんでした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

元妻と弟を串刺しの刑にされて手にした長篠城

勝頼は山県昌景に命じ、おふうと信昌の弟・仙千代(13歳)を串刺しという残酷な刑で殺害します。夫に捨てられたあげく残虐な方法で殺されたおふうの悲しみは、いかほどだったでしょうか。

奥平親子は、そうした犠牲のもと家康から長篠城を与えられます。それから2年後、勝頼は父が果たせなかった徳川攻めを再開。その武田の侵攻を食い止めることになったのが、奥平信昌の立て籠もる長篠城でした。父の定能は相談役として家康のそばに仕えていたため、息子が城を守っていたのです。

このとき長篠城の守備兵は500。攻める武田勢は1万5000の大軍でした。当初はすぐに陥落すると思われましたが、立て籠もる信昌としては犠牲を払ってまで徳川についた手前、もはや武田に再度寝返るわけにはいきません。必死の抵抗を行います。

しかし、その抵抗を続けられるか否かは徳川、ひいては織田の援軍があってのことです。勝頼は、信昌に何度も降伏を勧告します。このとき武田の包囲網を突破し、家康・信長との面会を果たしたのが鳥居強右衛門でした。

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【長篠城を救った鳥居強右衛門の忠義】

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