長篠の戦い(設楽原の戦い)のあと、信昌は正式に父定能から家督を継ぎ、家康の娘婿として厚い信頼を得ることになります。後年、家康の腹臣である石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔するという事件が起こった際には、数正から秀吉に軍事機密が漏れることを避けるべく、信昌は軍法そのものを武田信玄のものに変えるという大事業を担当して功績をあげます。
大大名への大出世の裏にある犠牲
関ケ原の戦いのあとは、混乱する京を治めるため京都所司代に任じられ安国寺恵瓊の捕縛などを行いました。その功を評価され、美濃国加納10万石を与えられます。
奥三河の有力国人から、大大名への大出世でした。その要因になったのは、信玄死後の徳川への再帰属の判断であったことは間違いありませんが、その前に16歳で命を散らしたおふうや弟たちの悲しい犠牲があったことを、いま一度付け加えておきます。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら