長篠の戦いを圧倒的有利に導いた籠城戦の裏事情 弟と幼妻を犠牲にした城主と鳥居強右衛門の忠義

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この奥平家の離反は、家康にとって衝撃でした。同時に信玄にとっては三河からの侵攻ルートを確保したことになります。そして1573年、信玄は満を持して徳川攻め(西上作戦)を開始。三方ヶ原で大勝するなど武田軍は破竹の進撃を続けたものの、三河野田城を攻略したあと突如撤兵しました。

この武田の撤兵は信玄の急死によるものでしたが、信玄は「三年間は我が死を隠せ」と遺言していたため、武田側はその事実の隠蔽を試みます。しかし明らかに不自然な撤退に、定能・信昌親子は信玄の死を疑いはじめました。

信玄の死を疑い再び徳川に身を寄せる

英傑である当主が亡くなったあと何が起きるかは、義元を失った今川家の混乱でよく知るところだったため、信昌の父・定能は密かに徳川とも交渉を開始しました。家康からすると一度は裏切られた奥平親子ですが、奥三河は武田にとって三河侵攻ルートの要衝の地。家康は過去の恨みや憤りを抑え、なんとか味方につけたいと考え始めて積極的に奥平家に働きかけます。

武田側はというと、奥平親子には不信感があったため、さらなる人質を要求。当主である定能は、どちらにも慎重な対応に終始しました。目論見が外れた家康は、やむなく信長に相談をします。ここで信長は「家康の長女を奥平家の嫡男・信昌に嫁がせる」という案を出しました。信長が頭ごなしに家康にこう命令したという見方があるのは、婚姻といっても実質的には家康側が人質を差し出すようなものだったからです。

もっとも信長にとっても、信玄亡きあと(この時、確信はなかったでしょうが)とはいえ武田の家臣団は健在であり、たとえ後継者である勝頼の実力がわからなくとも、信玄の残した山県昌景や馬場信春らの名将がサポートしているかぎり脅威でした。

それゆえ、なにがなんでも奥平家は引き込んでおきたいと思ったのでしょう。おそらく命令というより「そこまでしないと奥平家を味方にできない」という覚悟を、家康に促したのだと思います。家康はこの信長の助言を受け入れ、さらに領地加増の条件を加えて交渉しました。破格の条件を手にした定能は、再び徳川に帰属する旨を家康に伝えます。

この奥平親子の決断が悲劇を生みました。

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