「武田勝頼」親を追放し子を幽閉せし信玄の後継者 武田軍を率い名声を上げ家康の声望を落とす謀略

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NHK大河ドラマ『どうする家康』 眞栄田郷敦 武田勝頼
武田信玄を失った武田軍を率いる、武田勝頼がとった行動とは(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)
NHK大河ドラマ『どうする家康』第19回「お手付きしてどうする!」では、冒頭で武田信玄という巨星が墜ち、男たちが戦に明け暮れる世をしたたかに生きる女性の姿がフォーカスされました。第20回「岡崎クーデター」では、武田軍の調略により岡崎城の将兵が反旗を翻します。この信玄亡きあとの武田軍を率いた武田勝頼が、家康と戦を始めるまでを『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。

信玄を憎む諏訪家に生まれた勝頼

武田家最後の当主となる武田勝頼は、そもそも当主になる予定はありませんでした。信玄には、正室とのあいだに生まれた義信という正当な嫡男がいたからです。勝頼の母は「諏訪家」の姫でした。

信玄の父・信虎の時代には武田家と同盟関係にあった諏訪家ですが、信虎が信玄に追放されてからは関係が悪化。信玄は諏訪に侵攻し、その領地を奪い取ってしまいます。諏訪家にとって信玄は憎むべき敵でした。その諏訪家の姫を、信玄は側室にしたのです。

これには家中から反対の声が上がったようですが、信玄はこれを無視。さらに諏訪家の遺児に相続を認めず廃嫡するという、なかなかにむごい仕打ちを行いました。これを当の諏訪の姫は、どう思ったことでしょうか。

そうして生まれたのが勝頼でした。

勝頼が15歳になったころ、信玄は諏訪家を継がせます。勝頼の母はすでに亡くなっていましたが、ようやく諏訪家の復興がなされることとなりました。

この時点では、信玄にとっての勝頼は「自分が征服した諏訪家を武田の血筋にして一門化する道具」に過ぎませんでした。武田家の直系の証である「信」の字を勝頼の名乗りに与えられなかったのが、その証拠です。

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