その家康も、相手が信玄でなくなったことを少し甘く見ていた節があります。勝頼の実力は未知ではありましたが、山県昌景、馬場信春ら信玄側近の重臣たちは健在。軍事的な強さは信玄時代のままでした。
まず勝頼は、信長に圧をかけます。
信長の領地である東美濃に進出し、東美濃の要衝である明知城を攻め落としました。信長は明知城の救援に自らと嫡子・信忠に明智光秀を加え3万の軍勢で向かいましたが、武田勢は信長が到着する前に明知城を攻め落としました。やむなく信長は岐阜城に撤退します。
明知城の陥落は信長に大きな衝撃を与えたと思われます。これまで直接対決はなかった武田軍に領土を侵攻されたことで、その拡大を防ぐべく甲斐との国境に一定の戦力を残さねばなりません。これは中央での戦線にも影響を及ぼします。
信長は、再び徳川への援軍が出しにくい状態になりました。
勝頼はこのチャンスを逃しません。
父・信玄が果たせなかった徳川侵攻を改めて開始します。そして1574年に遠江に侵攻し、高天神城を攻めました。これは父・信玄ですら落とせなかった城でしたが、勝頼は見事に落とします。家康は織田の援軍が見込めず兵力に劣るため、出兵できないでいました。高天神城は結局、城兵の命と引き換えに開城します。
家康の評価は地に落ち勝頼の評価は爆上がり
ここで勝頼は寛大な処置をします。
城主・小笠原信興をはじめ誰一人処罰せず、武田に降伏する者は受け入れ、そうでない者はそのまま放逐しました。このため勝頼の名声はおおいに上がり、逆に救援の兵すら出さなかった家康の評価は著しく下がりました。
もともと遠江は家康の領地ではなく今川のもの。この機に家康を見かぎる者も少なくありません。ここまでは勝頼の圧倒的優位でことが進みました。勝頼は浜松城下まで攻め入るなど、家康への示威行動を起こします。
そして、このときに得た勝頼の絶対的自信が、長篠の戦いでの大きな判断ミスにつながるのです。
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