「信玄が城をつくると、東三河の奥平道文、 菅沼伊豆守、同新三郎、この人びとは、長篠、 作手、段嶺の山家三方をもっていたが、裏切って信玄側についた」
奥三河で最大の国衆となる奥平氏は、家名存続のために、松平氏、今川氏、徳川氏、武田氏などを渡り歩いたことになる。
奥平氏をしっかりと自分のもとに引き寄せておかねばならない。信玄の死を契機に、奥三河の奪還に動いた家康は、そう考えたのだろう。
ちょうど、このとき奥平氏の当主である定能が、菅沼氏と領土問題でもめていた。それにもかかわらず、武田氏が間に入って裁定しないことに、定能は不信感を抱きつつあったようだ。
家康がこのチャンスを見逃すはずがなかった。奥平定能と息子の信昌を従属させるために、家康は自分の娘である亀姫を、奥平氏に送り込むことを決意している。
家康と奥平氏が交わした7カ条の起請文
信玄の死から数カ月が経った天正元(1573)年8月20日、家康は奥平父子との間に、7カ条の起請文を交わす。そのなかで、奥平定能の嫡男にあたる奥平信昌と亀姫を結婚させると約束した。
1カ条目では、「今度申し合せ候縁辺の儀、来たる九月中に祝言あるべく候」とし、取り決めた婚姻について9月中に婚儀を行うとし、さらにこう約束している。
「今後はその進退を決して見放さない」(御進退善悪共に見放し申すまじき事)
政略結婚とともに、奥平氏と運命共同体になることを示した家康。2カ条目では「本地。同日近、ならびに遠州知行、いずれも相違あるべからぎる事」として、本領の作手領はもちろん、 一族である日近奥平家の所領、さらに遠江での所領についても、すべて保証するとしている。
こうして従来の所領を保証しながら、3カ条目から5カ条目まででは、新たな領国と所領を与えることも提示。次の6カ条目もまた、奥平氏にとって願ってもない話だった。
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