徳川家康の子「信康の死」に今も残る数々の謎 「三河物語」に書かれていた内容は本当なのか

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信康廟 (写真: Yukini /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康の長男、松平信康の死にまつわる数々の謎に迫る。

天正7年(1579)、徳川家康、生涯の痛恨事といっていい事件が起こる。いわゆる「松平信康事件」だ。事件の内容や真相に触れる前に、信康とその生母・築山殿について、簡単に触れておこう。

信康は、家康の長男として、永禄2年(1559)に生まれる。当時、家康はまだ「松平元康」と名乗っており、駿河・今川家の部将であった。信康の母は、今川の有力家臣・関口親永の娘・瀬名。後に築山殿と呼ばれる人物である。

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで、今川義元が討死すると、それからしばらくして、家康は織田信長と手を組み、岡崎にとどまる。これは今川からの離反を意味するものだった。

瀬名と信康は人質として残る

瀬名と信康は駿河に残されたまま。言わば、人質である。『三河物語』には、敵となった家康の子・信康(幼名は竹千代)を「すぐに殺せ」「明日、殺せ」という声が今川家中で巻き起こったという。しかし、今川の親族でもあり、有力家臣でもある関口氏の孫であったので、殺されることはなかった。

そうこうするうちに、永禄5年(1562)、家康に捕縛された今川の臣・鵜殿(うどの)氏と、築山殿・信康の人質交換が成立。築山殿らは、家康がいる岡崎に赴くことができた。

元亀元年(1570)、家康は本拠を浜松に移すが、それに伴い、竹千代は元服し「岡崎次郎三郎信康」を名乗る。岡崎城主にもなった。

なお「信康」という名前は、信長と家康から、それぞれ一字を貰ったものだ。信康は、信長の娘・徳姫と永禄10年(1567)に結婚しており、信康にとって、織田信長は妻の父であったのだ。

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