徳川家康の子「信康の死」に今も残る数々の謎 「三河物語」に書かれていた内容は本当なのか

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信康は岡崎城を出され、大浜(碧南市)・堀江城(浜松市西区)・二俣城(浜松市)と転々とする。そして、二俣城において、切腹させられたという。信康享年、20。以上、『三河物語』を基に「信康事件」の経緯を辿ってみた。

同書は、信康に悪い点はなかったとしている。悪いのは、夫を中傷した徳姫だというのだ。「夫婦なのだから、子供のためといい、人の噂といい、あれこれ考えたら、こんな中傷はするべきではない。酷い」と主張している。

『三河物語』が続けて非難するのは、酒井忠次である。酒井忠次は、徳川の重臣であるにもかかわらず、徳姫と一緒になって、口裏を合わせて、信康を中傷したと同書は批判する。

徳川の臣の多くが、酒井を憎んだが、信長の勢威を恐れて、なす術はなかった。

『三河物語』は、信康を礼賛しているといっていい。信康の死を「残念」とし、信康ほどの器量の者はそうそう現れるものではないと言う。

だから、上下の者が信康の死を嘆き悲しんだという。武勇に秀でた者を側に召して、合戦の話ばかりしていたという信康。乗馬と鷹狩りが趣味だったという信康。信康が語ったことを、家臣たちは「信康様はこう仰ったものだ」と後々まで、感心しつつ語りあったそうだ。

家康も「我が子ながら、器量よし」と信康を称賛していたが、信長に従わねばならないときなので、泣く泣く腹を切らせたというのが『三河物語』に書かれた「信康事件」の顛末だ。

三河物語の記述には疑問も

しかし、この『三河物語』(著者は旗本・大久保忠教)の記述は、大変偏っていて、史実とは異なるという指摘もある。大久保忠教は、家康や信康を庇おうとして、偏向した記述になったというのだ。

たしかに、『三河物語』には、徳姫が夫・信康を中傷したとする書状の内容などは記していない。ただ、信康を素晴らしい器量の持ち主だったと賞賛するだけである。

何より、家康は我が子・信康だけでなく、妻の築山殿も死に追いやっているのである。信康の不行跡があったとしても、なぜ、妻まで殺害する必要があるのかという疑問も残る。

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