徳川家康の子「信康の死」に今も残る数々の謎 「三河物語」に書かれていた内容は本当なのか
信康は家康とともに参戦すること多く、長篠合戦(1575年)にも親子で参戦している。信康は勇猛な武将に成長し、武田軍が迫り、徳川軍が「退却」するときも、家康を先に逃がし、自らは後で整然と退いた。危険な殿(しんがり)を務めたのだ。
『三河物語』に記された上記の逸話からは、父子関係は良好であったことが窺える。
ところが、天正7年(1579)、それが突如、暗転する。
『三河物語』は、そのきっかけを作ったのが、信康の妻・徳姫(信長の娘)だったと記す。徳姫は信康と不和となり、信康を中傷する書状(12カ条)を、徳川の重臣・酒井忠次に持たせて、信長に送ったというのだ。
信長は、酒井忠次を近付けて、1つひとつの内容について「これは本当か」ということを尋ねたという。それに対し、忠次は10カ所の内容について「そのとおりです」と答えたそうだ。
すると信長は「徳川家の重臣が、すべてその通りというならば、疑いのないこと。これは、とても放置しておけぬ。信康を切腹させよと家康に申せ」と忠次に伝えるのである。
「我が子を切腹させよ」との信長の考えに…
酒井忠次は、岡崎には寄らず、浜松の家康のもとに行き、家康に信長の意向を伝える。家康は、我が子を切腹させよという信長の考えを聞いても、狼狽することはなかったという。
「あれこれ言うまい。信長を恨みもすまい。身分が高い者も低い者も、子を可愛いと思うのは同じこと。信長は書状の内容を10カ所まで指さされ、お尋ねになった。酒井が知らぬと申し上げたならば、信長もここまでは言わぬはず。そのとおりと言上したから、こう仰ったのだ。信康は酒井忠次の中傷により、腹を切らせることになった。私も大敵(武田勝頼)に直面し、背後に信長がいては、信長に背き難い。あれこれ言うまい」というのみだった。
そう述べる家康に対し、家臣の平岩親吉は「軽々しく、信康様に腹切らせては、後悔されましょう。私は信康様の守り役。万事、私の不行届。私の首を切り、信長に差し上げてください」と身代わりになることを懇願。
家康は、信康を殺すことの無念を述べたうえで「武田勝頼という大敵と戦っている最中に、信長を裏切ることはできぬ。お前(平岩)を切って、首を持たせて、信康の命が助かるのならば、お前の命を貰いもするが、酒井忠次の中傷ならば、どうにもならん。そのうえ、お前を失っては、恥の上塗り。可哀想だが、信康を岡崎から出せ」と命じたという。
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