かつて三河の山間部には、3つの拠点がもうけられていた。長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏、そして、作手の奥平氏である。これを「山家三方衆」(やまがさんぽうしゅう)と呼ぶ。山家三方衆のなかでも、奥平氏が最も大きな勢力を誇っていた。
家康が生まれた岡崎城は、家康の祖父にあたる松平清康が享禄3(1530)年に築いたもの。岡崎城の築城と並行して、三河一国はほぼ清康の支配下に置かれた。そのときに山間部の菅沼氏や奥平氏らも帰服している。
松平清康の亡き後、奥平氏も今川氏の影響下に
だが、家康の祖父、清康が25歳の若さで死去すると、松平氏は急速に勢いを失う。清康のあとを継いだのは嫡男の広忠で、わずか10歳だ。家康の父にあたる広忠が、今川氏の庇護に入ったことで、家康は今川氏のもとで幼少期を送ることとなった。
おのずと奥平氏も今川氏の影響下に置かれた。奥平貞勝の頃に、今川氏との関係を強化することとなる。
だが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれて、独立した家康が三河の平定へと動くと、奥平氏の状況も変わってくる。奥平氏では、奥平貞勝が隠居して、息子の定能への代替わりが行われたのち、永禄3(1560)年ごろに今川氏から離反。奥平定能は、まだ幼い息子の信昌とともに、家康に属することになった。
家康は奥平氏を評価していたようだ。永禄7(1564)年2月27日付で、奥平定能に対して、三河各地での知行をあてがっている。時期的には、ちょうど家臣団が2分した一向一揆を乗り越えることに成功し、東三河への侵攻を再開した頃である。
その後、今川氏真が逃げ込んだ掛川城を攻める際にも、奥平氏は徳川勢として従軍。元亀元(1570)年6月の近江姉川の合戦でも、戦功を挙げた。
ところが、元亀3(1572)年に信玄が侵攻してくると、奥平氏は調略に応じて、武田側についてしまう。『三河物語』には、次のようにある。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら