人生最大のピンチは、時代の変わり目に訪れた
20代半ば。アンミカは2度目の渡仏でパリコレモデルとしてデビュー。コネなし実績なしでパリコレに挑み、門前払いされた前回とは景色がまったく異なっていた。
一流モデルの仲間入りを果たして、大阪ではタレントとしての活動も順調だった。アンミカの人生は、上昇気流に乗り始めたようにみえた。
しかし、再び試練は訪れる。
29歳の時、最愛の母に続き、精神的な支えであった父親を小さな医療ミスで失ったのだ。
その時、アンミカは大きな心の支えと同時に、自分のルーツを失ったような気持ちになったという。韓国人であるものの、物心ついた頃から、日本に暮らしてきた彼女は、韓国語の読み書きが苦手で、その歴史や文化を深く学ぶ機会も持たずにきた。
両親との別れを経て、祖国である韓国についてもっと知りたい。韓国語を学び、コミュニケーションをとれるようになりたいと願った彼女は、韓国に留学することに。
30代以降も表に立つことを生業とするならば、さらに自分を掘り下げることが必要だとも感じていた。
2001年、日韓ワールドカップの開催直前に韓国へ。当時は、数本のCMと、大阪では何本ものテレビレギュラー番組を抱えていたが、それらを一旦お休みして、延世大学に留学することにしたのだ。
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