独特「日本のコーヒー文化」が世界で注目される訳 喫茶店文化の中で進化したのが「ネルドリップ」

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そんなさなかに起きたのが、「メッカ事件」でした。メッカのパシャ(総督)であったカイル・ベイがコーヒーを禁止したのです。コーヒー豆は処分され、コーヒーを売った者、買った者、飲んだ者、いずれも鞭打ちの刑に処されることになりました。

結局、当時メッカを支配していたマムルーク朝の首都カイロ(現在はエジプトの首都)からコーヒーを禁止しない旨が通達されたことで、この事件は沈静化します。

とはいえ、その後もコーヒー弾圧の動きは続きました。コーヒーを通じた議論、コミュニティによって、大衆が体制側(宗教や政治の指導者)より力を持つことを、体制側が恐れたからでしょう。これらの弾圧は、後にヨーロッパでコーヒーハウスが民主的な施設として広がったときと同様に、コーヒーが民主的な飲み物であることを象徴しているように思えてなりません。

弾圧があっても庶民の間に根付いたほど、コーヒーの魅力には抗えないものがあったのではないでしょうか。

さて、このカフェハネは1554年に、オスマン帝国(アラブからアフリカ、ヨーロッパにまたがる一大版図を築いた、現在のトルコにあたる帝国)の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にも作られました。

多大な人口を抱えるオスマン帝国の首都に、内装にも贅を尽くしたカフェハネが誕生したことで、カフェハネやコーヒーの評価は高まり、オスマン帝国全体にコーヒーが本格的に普及することとなりました。カフェハネはますます豪華になり、多くの人々を引き寄せ、「賢者の学校」と呼ばれるまでの存在になりました。

ヨーロッパとコーヒーの出会い

そして17世紀になると、コーヒーはついにヨーロッパへと伝播します。

17世紀初頭には、地中海を通じてアラブ世界と交易を行っていたイタリアのヴェネツィアに伝わったとされています。

その当時、ヨーロッパの文化的中心だったフランスへは、1644年にP・ド・ラ・ロークという人物がイスタンブールから持ち帰ったのが最初だとされています。また、その2年後の1646年に生まれ、『千夜一夜物語』を翻訳したフランス人のアントワーヌ・ガランは、『コーヒーの合法性の擁護』をフランスに紹介した人物でもあるなど、ヨーロッパへのコーヒー紹介は、もっぱらフランスに端を発しています。

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