席に腰を下ろした葵は桐山少年の目の前に置いてあるコーヒーに気づくと、
「あの、これも下げてもらえますか?」
と、カップに手を伸ばした。
「あ、これは、いいの。大丈夫。僕のだから」
桐山少年は慌ててカップを押さえる。その行動に健二と葵が顔を見合わせた。
「お前、コーヒーなんか飲めないだろ?」
「そうよ。どうしちゃったの?」
不審がる二人に、桐山少年は、
「今日は僕が大人にならなくちゃいけない日だから。だからコーヒーなの」
と、苦し紛れの言い訳をした。
だが、桐山少年の言葉を聞いて二人はギョッとして、気まずそうに視線を逸らした。
「でも、無理して飲まないでね。ダメならお母さんが飲んであげるから」
心配そうに葵が声をかける。
「よければ、こちらお使いください」
そう言って、桐山少年のカップの脇にミルクピッチャーを置いたのは時田数だった。中身は牛乳である。確かに、普通のコーヒーなら牛乳と砂糖を加えると飲みやすくなる。だが、このコーヒーはただのコーヒーではない。桐山少年は牛乳を入れたら一気に冷めてしまうのではないかと心配そうにミルクピッチャーを見つめた。
すると、数はすかさず、
「心配いりません。どれだけ入れてもコーヒーの温度に影響は出ませんので」
と、付け加えた。
健二と葵は数のその言葉を聞いて、何を言っているのかわからずに首を傾げたが、桐山少年だけは、
「ありがとう」
と言って、数に丁寧に頭を下げた。
僕は笑って「わかった」と答えて飲み干せばいい
これは、牛乳以外でも変わらない。たとえば、カップをバーナーなどで温めても、中のコーヒーの温度を変えることはできない。どんな努力をしても現実を変えられないのと同じで、どんなに熱を加えても数が淹れたコーヒーの温度を人為的に変えることはできない。ここにも、喫茶店の不思議な力が働いている。
「お待たせしました」
桐山少年が牛乳をカップに注ぎ、砂糖を入れてかき混ぜていると、キッチンから流がクリスマスケーキを持って現れた。ケーキには「メリークリスマス」と書かれたプレートが乗っている。
去年のクリスマスでは、桐山少年が切り分けられたケーキを一口食べた所で店内の柱時計が鳴り、葵が桐山少年の頭をなでながら、
「よく聞いてね、ユウキ」
と、話を切り出した。
その時の葵の手の温もりをよく覚えている。桐山少年は去年のクリスマスで泣いてしまったことを思い出しながら考えていた。
(お父さんとお母さんは別れても、楓ちゃんと西垣さんと幸せになる。だから、僕は笑って「わかった」と答えてコーヒーを飲み干せばいい)
葵の手でケーキが切り分けられ、準備は整った。あとはフォークでケーキを口に運ぶだけでいい。
(第5回<最終回>に続く、3月31日配信予定)
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