大川隆法氏の亡き後「幸福の科学」はどこへ? 東大卒、大手商社から宗教家に転じた異色人生

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大川氏が商社を退職し「幸福の科学」を設立したのは1986年。当初は宗教団体ではなく、大川氏を霊媒として語られる霊人たちの言葉(霊言)から霊界の仕組みや人生について学ぶ「勉強会」のようなものだったという。大川氏の立場は神や再誕の仏陀ではなく、霊能力をもつ「先生」だった。

しかし1989年から自らを「仏陀の再誕」とも称するようになる。1991年初頭には、同年に100万人、1992年に300万人、1993年に1000万人という会員数目標を発表し、拡大路線を鮮明にする。この1991年に宗教法人の認証を受け、大川氏は講演会で自らを地球至高神「エル・カンターレ」であると宣言する。

『エル・カンターレ聖夜祭「ネオジャパニーズドリーム」』(1993年12月23日)から。

教団はこうした目標を次々「達成」した。その数字が実質的な信者数として正しいかどうかはともかく、この頃に信者数が伸びたことは確かなようだ。ある元職員は、こう証言する。

「目標値の大きさに加え、唐突に『必勝必達』期限が短縮されるなどして、信者たちは振り回された。結果、『光の楔』と呼ばれる無承諾伝道が横行した。当人の承諾を得ず、入信したものとして教団に申告するというものです。そのうち、入信手続きを経なくても『正心法語』という信者必携の経文を受け取った人は信者としてカウントするという方針転換もあったため、この経文があちこちにばら撒かれるようになりました」

私自身、13年間この教団を取材し、イベントに参加したり教団施設で信者と交流したりといったこともした。その中で、最近入信したという人に会った記憶がない。下手をしたら皆無かもしれない。信者の多くは、初期の拡大期に入信した人と、その子供たちだ。

社会との摩擦を厭わず

宗教法人化した1991年は、幸福の科学にとってトラブルの年でもあった。講談社が発行する週刊誌『フライデー』が、大川氏を「分裂病でうつ病」などとする内容を含む記事を連発し、教団側が講談社へのデモや抗議の電話、FAX攻勢に出た。いわゆる「講談社フライデー事件」だ。

当時一線で活躍していた作家の景山民夫(故人)や女優の小川知子などが、信者として抗議活動の最前線に立ったこともあり、ワイドショーなどでも大きく取り上げられた。

教団は講談社に対して複数の訴訟を起こし、信者を原告とする集団訴訟も全国で多数起こされた。記事の内容に関して教団が勝訴したものもあるが、信者を原告とした裁判は一部を除いて軒並み敗訴。中には判決で「訴権の濫用」とされたものもあった。

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