幸がキッチンに消えるのを確認してから、ようやく轟木がテーブルと椅子の間に体をすべりこませた。子供の頃から、よく遊びに来ていたという場所ではあっても、この席に座るのは初めてに違いない。轟木は、物珍しそうに、その席から店内を見回した。
「奥様も、この喫茶店にはよく来られていたんですか?」
数が話しかけた。
数は轟木とは初対面だったが、世津子のことを話題にすることで、おおよその話は聞いていますよ、と主張したのである。
それは轟木も心得ていて、
「ええ、五年前の、亡くなる直前の正月には帰省していて、ユカリさんに新年の挨拶に伺ったと聞いています」
と、答えた。戻るべき日もちゃんとイメージしてある。
「では、その日に?」
「ええ、そのつもりです」
世津子が亡くなったのは五年前である。その直前の正月、おそらくは、世津子がここを訪れた時間も正確に知っているに違いない。数が説明するべきことは何もない。
幸がトレイを持って現れた。ここ数か月は、トレイの持ち方を数や玲司に習い、毎日練習していたので、いくぶん扱いはうまくなっている。
幸は、まだまだ慣れない手つきで真っ白なコーヒーカップを轟木の前に出して、
「ルールは聞きましたか?」
と、ていねいな言葉使いでたずねた。
幸の緊張した面持ちに気づき、轟木がほほえみかける。
「コーヒーが冷めないうちに」
「大丈夫だよ。おじちゃん、昔、この喫茶店で働いたこともあるんだ、だから、大丈夫……」
本当か嘘かはわからない。どちらにせよ、目の前の少女を安心させるための気遣いであることは傍目にもよくわかった。
幸は、一度振り返って数を見て、
(いいの?)
と、目で訴えた。
数は笑顔で答える。
幸の表情が柔らかくなった。やはり、まだ、七歳。緊張するのも無理はない。
幸は、ゆっくりと銀のケトルに手をかけると、
「じゃ」
と、一言、仕切り直して、
「コーヒーが冷めないうちに」
と、告げた。
その言葉が静かな店内に響き渡ると、幸がカップにコーヒーを注ぎはじめた。
何度も練習した成果だろう、銀のケトルの細い注ぎ口から、ゆっくりと、静かにコーヒーがカップを満たしていく。
轟木はカップに満たされるコーヒーを見つめながら、子供の頃、初めてこの喫茶店の噂を聞いた日のことを思い出していた。
「過去に戻れる? 嘘だろ? しかも、現実変えれねーの? それって意味ねーじゃん?」
それが、轟木の第一声である。まさか、そんなことを言っていた自分が実際に過去に戻ることになるとは思ってもいなかった。
(そういえば、その時一緒にいた世津子は「素敵ー!」とか言って、目をキラキラさせてやがったな……)
懐かしさと、おかしさが交錯して、轟木の口から思わず「ククク」と声が漏れた。
その声を最後に、轟木の体は一筋の湯気となって上昇し、そして、天井に吸い込まれるようにして消えた。あっという間の出来事である。
カラン、コロロン!
その時、けたたましくカウベルが鳴って、林田が走り込んで来た。入ってくるなり、林田は轟木の消えた例の席に駆け寄って、
「ゲン!」
と、叫んだ。ゲンとは轟木の名前である。
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