地域社会の「しがらみ」と折り合いをつける思考法 「土着」と「離床」のちょうどいいリアリティ
それは『モノ』を消費することを通じた自己表現が『当たり前』になり、その力を半ば失った時代に『コト』の力を借りて同じ効果を獲得しようとした試みだったのだ。」(『遅いインターネット』154、156〜157頁)
こうしてインターネットは、継続的に飛び続ける「浪漫飛行」を可能にしたといえます。モノからコトへ消費の対象が移り、リアリティを喪失すればするほど、地面から離れれば離れるほど経済が回る仕組みになっていきました。1990年代から2000年代にかけて、インターネットインフラの普及と消費社会の成立が並行して起こっていったのです。
しかしインターネット環境が当たり前になった現在、インターネットの長所と短所もだいぶ見えてきました。実体経済から金融経済へ、現実から仮想へと移ってきた時の流れの中で、僕たちはどのように「リアリティ」と折り合いをつけていけば良いのでしょうか。
二項対立で考えずに「土着する」
実体経済がリアルであり、金融経済がバーチャルであるという二項対立的な図式の中でどちらかを選択せざるを得ないと思いこんでしまうと、生きていくのが不自由になります。そうではなく、この対立的に語られがちな二者間を行ったり来たりしながら「ちょうどよい」ポイントを常に探っていく。僕はこれを「土着する」と呼び、推奨しています。実体経済と金融経済、現実と仮想、ローカルとグローバル、アナログとデジタルなど、2つに分けて考えること自体が悪いわけではありません。むしろ「考える」とは、物事を2つに分けることから始まるからです。
実体経済、現実、ローカル、アナログが「地に足をつけること」で、金融経済、仮想、グローバル、デジタルが「飛び立つこと」を意味するわけではありません。僕の言う「土着する」ことは、その状況に応じて適した手段を選べることを意味します。だから、例えば山村で狩猟採集と炭焼を中心とした自給自足の生活を行い、インターネットや携帯電話に頼らない生活をすることが「土着する」ことだとは考えていません。反対に、都市に住みながら商店街の馴染みの個人商店で買い物し、銭湯に行ったりして地域経済の中で生活することは十分に「土着する」ことだと思っています。
自分にとっての「ちょうどよい」を見つけ、手放さないこと。そのためには手段を選ばない。これが「土着する」ことの肝なのだと思っています。
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