地域社会の「しがらみ」と折り合いをつける思考法 「土着」と「離床」のちょうどいいリアリティ

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さらに1983年は、任天堂からファミリーコンピューター(ファミコン)が発売されました。一家に一台ファミコンが配備されるまでは、本体を持っている友人宅にソフトを持ち寄って遊んでいた記憶がありますが、テレビが一人一台の持ち物になっていき、携帯用ゲーム機が出てくると遊び方も変わっていきました。

この過程も地域や家族といった共同体内で完結していた日常と非日常の構図を崩壊させ、「そんなことより楽しいこと」を生み出したという点では象徴的だったといえます。極端に言うと、ディズニーランドとファミコンが1983年に誕生したことは、90年代に青年期を過ごす僕たちのあり方を決定づけたといえます。この時代について、文化社会学者の吉見俊哉はこう述べています。

「政治の中枢でのスキャンダルとおぞましい殺人事件という、直接的にはまったく結びつかない1989年に起きた2つの出来事が同時に示唆しているのは、80年代末を決定的な転換点として起きた現実性の変容である。この変容のなかで、私達の社会は、「戦後」という時代のリアリティを支えてきた基盤を失っていった。ここから先、1990年代の日本で起きていったことは、日常の自己から政治の大きな流れまで、この空洞化したリアリティにおいて営まれるようになる過程だった。」(『平成史講義』、33頁)

「離床」がもたらしたリアリティの変容

僕は永田町で起きた莫大な額のお金が動いた事件や猟奇的な殺人事件とは直接関わることなく、90年代を比較的楽しく過ごしました。少なくとも、同時代を生きた身としてはそのように思っていました。

しかし吉見によると、前者のリクルート事件は実体経済から金融経済への変化を表しており、後者の宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件は自己と他者のより一層の仮想化を意味しています。確かに僕たちの世代は金融経済とアニメやゲームがない状態を想像するのが難しいくらい、「空洞化したリアリティ」の中で育ってきたといえます。

この背景について、オーストリアに生まれた思想家イヴァン・イリイチの考え方がヒントになると考えています。イリイチは、近代社会の特徴を地から離れていくという意味で「離床」という言葉を使用しました。

「『わが西欧社会がつい最近人間を経済的動物にしてしまったのだ』(1910年)ということを認識した人は、マルセル・モースであった。西欧化した人間とは、ホモ・エコノミクスのことである。社会の諸制度が、地域社会から<離床した>商品生産に向けてつくり直され、商品生産がこうした存在の基本的ニーズに見合うようになったときに、この社会は<西欧的>と呼ばれるようになる。」(イリイチ、玉野井芳郎訳『ジェンダー』岩波現代選書、22頁)

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