地域社会の「しがらみ」と折り合いをつける思考法 「土着」と「離床」のちょうどいいリアリティ
イリイチの言うように「社会の諸制度が、地域社会から<離床した>商品生産に向けてつくり直された」のが近代社会です。この社会はすべてがお金によって交換可能な商品で構成されています。そのためには土地から離れることが必要だったのです。だからこそ自由だし、地域社会の煩わしい「しがらみ」にコミットせず好きなように生きていけます。
実体経済から金融経済へ、現実から仮想へというさらなる「離床」はリアリティの変容をもたらしました。ちょうど飛行機が地面を離れるために滑走路を駆けるスピードを増していく時間、それが90年代だったのです。
僕たちは「バブル」を知らない
象徴的なことの一つが「バブル」です。僕が知っているそれは、93年のサッカーJリーグの開幕式に詰まっています。
すでに時期的には「バブル」は崩壊していましたが、超満員の国立競技場が何十本ものサーチライトで照らされるきらびやかな開幕式は、TUBEの春畑道哉氏のギターの生演奏で始まります。川淵三郎チェアマンの挨拶の後は、TUBEの前田亘輝氏の国歌斉唱です。YouTubeで動画を見ることができるので、ド派手な演出とクセの強い国家斉唱をぜひご覧ください。
さらにその年を総括するJリーグアウォーズでは、大きな風船が割れるとMVPの三浦知良選手が田原俊彦ばりの赤いスーツを着て立っています。なんとも浮かれた演出です。
僕たちは実感としては「バブル」を知りません。だからおとぎ話みたいなものだと思っています。未だにこのファンタジーを引きずって生きている人もいて、そんな人を少し滑稽に見ている自分を省みると、僕は「バブルを知らない」ことを不幸だとは思っていないようです。身の回りの大人が「バブル」と関係のない世界に生きていたため、それが崩壊しても何の被害もなかったことがその要因かもしれません。
「離床」との関連で言うと、「バブル」はいっとき宙に浮くような「ジャンプ」でしかなく持続性はありませんでした。宙に浮く持続性をもたらしたのが、インターネットの登場でした。インターネットによって、人は現実から仮想へと本格的にフィールドを移すことが可能となりました。批評家の宇野常寛はその代表に糸井重里の名前を挙げ、モノからコトへ関心を移動させることができたといいます。
「1998年に誕生した『ほぼ日刊イトイ新聞』(『ほぼ日』)は、吉本隆明が1980年代に唱導した消費による自己幻想の強化(による共同幻想からの自立)というプロジェクトをアップデートしたものだと言える。(中略)それはモノ(消費社会)とうまく距離を取るためのコト(情報社会=インターネット)という発想である。(中略)『ほぼ日』は、20世紀末の消費社会においてインターネットというモノではなくコトを用いる装置で、人間に『自立』をそっと促すメディアとして誕生した。
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