驚愕!大名が建てた「食べられる城」とは? 植物を戦いに利用した武士の知恵

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実は、松はいざというとき、非常食にもなったのである。

松が食糧になるのかと驚かれるかもしれないが、松の皮をむくと白い薄皮がある。この薄皮が、脂肪分やタンパク質を含んでいるのだ。薄皮をうすでついて、水にさらしてアクを抜き、乾かして粉にする。この粉を米と混ぜると餅になる。これを「松皮餅」という。

このように、松は観賞用としても軍事用としても、非常に優れた植物だったのだ。

奇想天外な「食べられる城」

江戸の太平の世になっても、九州にはまだ火種がくすぶっていた。徳川の仮想敵国である薩摩島津家があったからである。

もともとは豊臣の家臣でありながら、関ヶ原の戦いで東軍についた黒田長政は、福岡藩の初代藩主となり、福岡城を居城とした。この福岡城には、多聞櫓(たもんやぐら)という櫓があった。櫓は「矢倉」とも書くとおり、武器庫の役目を果たしていた。

よく工夫してあると感じるのは、この櫓の壁が、竹を編んで造られていることである。竹は戦の際に、矢とすることができるからだ。さらに驚くべきは、矢を結んでいるのがひもではなく、干したワラビなのである。ワラビはいざというとき食糧になる。

このような工夫を極めたのが、熊本城である。築城したのは、虎退治で有名な加藤清正。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで大活躍した、賤ヶ岳七本槍のひとりである。

清正はもともと、豊臣秀吉の家臣であったが、秀吉の没後には家康の家臣となり、島津を抑えるために隣国の肥後(現・熊本)に居城を構えた。

熊本城は堅固なことで知られる。江戸時代は攻められることはなかったが、明治になって西南戦争が起きると、政府軍の拠点となっていた熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を受けた。しかし、隆盛はついに熊本城を落城させることはできなかった。

隆盛は思わず、「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と嘆息したと言われる。

この熊本城が、なんと「食べられる城」なのだ。たとえば、城内に敷かれている畳。普通なら、畳の芯にはわらを使うのだが、なんとサトイモの茎が使われている。サトイモの茎は保存食になるからだ。

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