また、土壁のつなぎにもサトイモの茎が使われているほか、壁にはカンピョウが塗り込んであると言われる。
まさしく食べられる城だ。
清正は、朝鮮出兵の際、厳しい籠城生活を体験したので、これだけ念入りに糧食の準備をしたのである。
梅干しは戦になくてはならぬ万能薬
毎年、梅の花の季節になると、大勢の人が水戸の偕楽園に押しかける。偕楽園は1842年、水戸藩主の徳川斉昭によって造園された。
だが、梅の木は単なる観賞用ではない。軍事目的もあったのである。梅干しに含まれる塩分やクエン酸には、疲れをいやす効果がある。戦のさなかには、のどが渇いても水を飲めないことがあった。そのようなとき、梅干しをなめるとだ液が分泌され、渇きを潤すことができたのだ。
また、梅干しには食中毒を予防する効果もある。それだけではない。梅酢はケガをしたときの殺菌、消毒用としても用いられた。
まさに梅干しは万能薬である。だから、戦国大名は、積極的に城に梅を植えたのである。
忍者は薬草のオーソリティ
忍者のルーツは、聖徳太子の時代にまでさかのぼると言われている。戦国時代になると、忍者による諜報活動は必要不可欠となった。
忍者は山中に忍び、ゲリラ戦を戦い抜いた。山中を根城とする忍者に、植物の知識はなくてはならないものだった。植物を食糧とするのはもちろんのこと、薬草としても使い、敵を倒す毒も植物から抽出した。いわば、忍者は植物のオーソリティと言えるのだ。
忍者の中には、その名も「草」と呼ばれる者もいた。敵方の地で一般人になりきって暮らし、諜報活動を行った。だが、努力も空しく、情報収集が必要ないときもあった。そのようなとき、「草」は、ひとりの住人として、まさに1本の雑草のように生涯を終えたのである。
歴史の影には、このような忍者の存在もあったのを覚えておきたい。
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